英語民間試験について会見する萩生田光一文科相=11月1日、東京・霞が関の文科省(古厩正樹撮影)

 日本人にとり英語とは何か、その文化史的意味にふれて、世間を騒がせている英語教育や入学試験について再考したい。

 ≪明治維新で「脱漢入英」に≫

 知識人(インテリゲンチア)とは先進文化の言葉を学ぶ人である。日本の知的俊秀は大和言葉のほかに漢文を学んだ。それが明治維新で変わった。「漢籍を捨てて英書を読め」と福沢諭吉は日本人に言語学習の転換を唱えた。近代世界の中心は、もはや中国でなく、英米だと分かったからである。国の文化方針も和魂漢才から和魂洋才に転じた。日本は言語的に「脱漢入英」した。英語が世界共通語の地位を占め続けるので、欧州諸国でも羅甸(ラテン)語より英語を習う「脱羅入英」が、そして旧ソ連圏でも「脱露入英」が加速化した。中国でも歴史上かつてない多数の人が英語を習い出した。

 徳川の武士は漢文の読み書きが求められた。明治大正の学士も英語は読めればよかった。ところがグローバル化で日本人も外国人と張りあって仕事する。世界の中央で活躍する英才才媛は、標準語である英語を駆使するバイリンガルの能力が求められる。維新後の東京中央で活躍しようとした人は、地方弁だけでなく、標準語の能力が求められた様(さま)に似るが、困ったことに、語系を異にする日本語と英語の差は、同じ語系の地方弁と東京弁の差より大きい。

 海外渡航が増えた結果、なにが起きたか。日本人は生涯に一度、カルチャー・ショックを受ける。外地に着いた途端、意思疎通で苦労する。官吏、会社員、教授を問わず、ヒアリングもスピーキングもうまくない。電話もしんどい。談判もしどろもどろだ。用意してきたペーパーを読み上げる分にはいいが、質問に即答できない。そんなパニックが深刻であるだけに、「日本の英語教育は駄目だ。もっと役に立つ会話を教えろ」と英語教育批判の大合唱となる。

 1974年、自民党の政務調査会で平泉渉議員が「わが国における外国語教育は、活用の域に達していない。成果は全くあがっていない」と言い出し、渡部昇一上智大学教授と「英語教育大論争」(文春文庫所収)をした。すると東大でも同種の批判が出、数学教師が「商社員の夫人を会話教師に雇え。小説など教えるな」と叫ぶ。外地で商社の奥さまの英語が流暢(りゅうちょう)に聞こえたとは、ご本人、外国語会話の輪にとけこめず、つらかったに相違ない。私が「数学教室で英米人の数学教師を採用し英語で数学を教えれば、数学も英語も習えて一石二鳥になりますが」と提案したが、外国人を語学教員以外に採用する案に当時は誰も賛成しなかった。

 ≪外国語学習の2つの意味≫

 外国語教育における日本人教師の役割分担は、中学以上の生徒はもはや赤ん坊でない以上、やはり文法、英文和訳・和文英訳の段階を踏んで教えるがいい。数学が頭の体操であると同様、優れた英文テキストの読解は、知的格闘で、言語的感受性を磨くから、同時に国語力の鍛錬となる。基礎ができていれば会話はじきに楽になる。特別学級で古文や漢文のすぐれた英訳を教えれば、一石二鳥の教育になる。

 私はカルチャー・センターで『源氏物語』を英訳と照合して教えている。グローバル人材には、英語が堪能(たんのう)なことは大切だが、自国古典に親しみ、日本人であることに自信の持てることが望ましい。自己のアイデンティティーの自覚のない人が、外国語で日本のために弁じ得るとは信じがたい。

 外国語学習には教養外国語と実用外国語の二面がある。その一方だけを強調するのは間違いだ。教育を政争の具にしてもらいたくない。しかし世間は英会話や英語発信力の速成を望むだろう。その能力不足は日本の国防力の不足を意味するからだ。そうであってみれば、日本の英語教育の現状に対する不満は今後も続くだろう。それならかわいい子には外国へ旅をさせる、日本の学校に外国人教師を増やす、日本人の英語教師は必ず外国へ留学させる、海外帰国子女を増やす、などの予算措置を講ずるがいい。

 ≪小さな公正と大きな誤り≫

 世間は今、大学入学共通テストへの民間検定試験の導入の可否で騒いでいるが、俗耳(ぞくじ)に入りやすい正義の主張を私は警戒する。1948年、旧制一高を私が受験したときは英語の書き取りがあって、日本人教師が各教室で英文を読み上げた。ところが翌年一高が廃止され新制東大になるやなくなった。英語の書き取りは地方の受験生には不利だという「正義」の主張がまかり通ったせいだ。だが大学の入試次第で高校以下の英語教育内容が変わる。

 廃止して半世紀後、ディクテーションが大学入試センター試験で復活した。すると、中学高校の英語クラスでもヒアリングに重きが置かれるようになった。よくある話だが、日本人は小さな公正にこだわるあまり大きな間違いをしでかす。これからの日本は餅は餅屋ではなく一石二鳥の英語教育法を広く開発すべきではあるまいか。(ひらかわ すけひろ)産経新聞

 国語と英語を両方に堪能になる教育が必要である。明治の知識人は英訳に国語の閃きがあった。日本の学校に外国人教師を増やす、日本人の英語教師は必ず外国へ留学させる。国語教育も充実させることである。