覚え書2 呻吟ブルース | 愛染恭介のやぶからぼう日記

覚え書2 呻吟ブルース

ブルースというものにわざわざ呻吟をつけるまでもない。

この二重に重い言葉を繋げたわりには軽いサウンドは、単にsingingとかけたという軽率なノリもあるが

モノマネだけの薄っぺらいブルースをやるくらいだったら、

本当に胸のつかえをとるような、自分のブルースをやるしかない。

まあ自分の軽い存在にはおあつらえ向きなブルース。


それにしても偉大なブルースマンにはどうして盲目の人が多いのだろう。

黒人が大統領になることが考えも及ばなかったろう時代の、社会的立場が弱い上に盲目という

黒人がやれることはブルースぐらい・・・と言うのはたやすい。

韓国の「風の丘を越えて」という映画があった。パンソリ(伝承歌)歌手を旅をしながら

歌い手である娘をホンモノに育てるべく、その師匠である父親が道中少しずつ食事に毒を盛って

失明させてしまう。そのことによって引きかえに無常を手に入れ、

歌を手にいれ一人前のパンソリとなっていく壮絶な映画だった。

漢字の成り立ちをひもとく「文字逍遥」(白川静)の中に、「音」についてこう書かれている。

音こそ、霊なるものの「音づれ」=「訪れ」であると。

中国でも古い時代、神に仕える者には盲目の人であることが多い、とある。

「左伝」という古事記によれば、ある戦で「南風競はず」として楚の敗北を予言した聖者が

南北の歌声を聞いて戦いの勝敗を知ったという。神の声はあらゆるものの音を借りてその意を

示すことができた-こんなものを読んでいたら・・・

盲目のブルースマンたちも、目が見えないことで単に音に敏感であった、なんていうレベルではなく

声なき声、音が聞こえたに違いない。

あ、以前にも書いたけど日本にも瞽女(ごぜ)という存在がいたそうな。

神の姿は肉眼でみえるものではない。ただその「音なひ」を聞くことができた。


映画「ブルース・ブラザース」の二人はいつだって夜だってサングラスをかけていた。

そうやって闇のなかでブルースをさぐってたんだ!

愛染、出直してきます。


愛染恭介大西英雄12/11(木)吉祥寺MANDA-LA2 LIVE!!