今回は私の魂が最も避けたい話、過去世で明智玉(細川ガラシャ)であった時代に起きた『本能寺の変』について書きたいと思います。


以前玉(ガラシャ)の侍女るいさや、号泣しながらもガラシャの介錯をしてくれた家臣金津助次郎について書いて気持ちが楽になった事があったので、本能寺の変についても少し吐き出させてください。



昨年末の録画ですが、一昨年明智光秀の築いた坂本城の石垣が発見されて研究が進んでいるらしく、坂本城城下町について取り上げているテレビ番組を見ました。





何故かそれを見ながら

「このような石垣は見覚えがある。

父らしい城下町だな。

街作りは好きだったしな。」

と激しい郷愁の思いに駆られました。

いつもの如く、なぜ「父光秀は街作りが好きだった」と思ったのか自分でも分からないのですが…


私の記憶にある光秀は、戦が嫌いでした。

戦に行く前は眉間に皺を寄せて苦悩に満ちた顔をしていました。


明智玉として生きた時代、私が幼い頃はよく仲間と囲炉裏を囲んで談話する父のあぐらの上に座らされていたのですが、父としては私を可愛がっていたから側に置いたというだけではなく、幼い女の子を同席させる事で

「妻や子供のためにも生きて帰りたい」

という思いを仲間の心に呼び起こさせて、自然と皆が無謀な言動を控えるよう仕向けるためでもあったように思います。


また、この過去世での私が小さい時に遊んでくれた家臣のお兄ちゃんが父の迎えに来た際、私に手を振りながら出征して行くのを寂しく見送った記憶があります。

仲良くしてくれたお兄ちゃんに付いて行きたい、囲炉裏を囲む父や藤孝(出家後、細川幽斎)様達の話をもっと理解出来るようになりたい、という思いもあって6歳を迎える頃には玉は「戦に連れていって!」と言う面倒臭い子供に育ちました。


信長様が幼い頃の私を

「これは男であれば立派な武将になっただろう」

とお褒めくださったという逸話が残っていますが、そのお言葉そのものは私の記憶に無いものの、私が父に「一緒に戦に行く!剣を教えて!」と言っていたこの頃の出来事だと思います。



戦嫌いの父は、何故謀反を起こしたのか。



以前アメブロをなさっていた方で、

「過去世で自分は鉄砲撃ちとして光秀本陣にいた。

天王山の戦いにも参加し、恵解山(いげのやま)の西側で死んだ。」

とおっしゃる方とやり取りをさせていただいた事がありました。

その方の今生での過去世の思い出し方、トラウマの引きずり方は本物であるように感じました。


その方は

「銃を扱えたので光秀本陣に組み込まれたが、元々は村ごと人質に取られていたので光秀に従わざるをえなかった」

のだそうです。

私がその娘であるにも関わらず、

「あの時代、それはしょうがない事だった」

と、慰めてくださった上に色々教えていただいて本当にありがたかったです。


その方は

「烏丸を目指して桂川を下って鳥羽の辺りに差し掛かった頃、行軍が伸び切った頃に後方の部隊が本能寺を襲撃したという報せが光秀のもとに届いた。

光秀は驚いていたが、その後責任者として行動せざるを得なかった。」

とおっしゃっていました。

本能寺の変は光秀の本意では無かったのかもしれません。



先日録画をようやく見た『歴史探偵』という番組では

「2021年に『本能寺へは部下を差し向け、光秀は鳥羽に控えていた』という資料が発見された」

と言っていました。


光秀本陣にいたその方とのやり取りは2021年以降であったものの、その方が2021年に発見された資料の内容を知って話を作ったのであれば

「光秀は部下を差し向けて自分は鳥羽に控えていた」

とするはずで、

「予想外の本能寺襲撃に驚いていた」

とは言わないはず。

ですので、私は以前と変わらずこの方の

「本能寺の変襲撃は光秀の本意では無かった」

との言葉を信じています。


ただ、光秀家臣の斎藤利三(春日局の父)の息子だったと思いますが、

「光秀が信頼する家臣数名を集めて信長様を倒す意向を伝えたところ、『話がどこから漏れるか分からないから、実行するならば早い方が良い』との声が上がった」

との証言をしたという記載を目にした事があります。


これが本当であれば、光秀は信長様を討つ機会を前々から伺っていたものの光秀の意を汲んだ重臣が光秀の号令無くして本能寺を襲撃したものであって、タイミングが光秀の思ったものではなくて「動揺した」という可能性も考えられます。



私の過去世の記憶にある天正10年、宮津に孫の顔を見に来た光秀が縁側で物思いに耽っていたのは、信長様への謀反の根回しをしようと藤孝様に話をしたものの、良い返事が得られなかったためかもしれません。



そうであれば本能寺の変直後、細川藤孝様が

「信長様の菩提を弔う」

と早々に出家を宣言したのも、光秀の計画に甘さがある事を知っていたものの自ら光秀に刃を向けるのをためらったためであったと考えられます。



一方で先日彼と話していた時に、細川忠興の一色義定謀殺の話題になりました。

本能寺の変で藤孝様が隠居なさった後、細川忠興が妹婿である一色義定を宴席と称して呼び出し殺害したという事件です。


「俺が細川忠興だったとして、そんな事するか?」

と、それまでずっと私の中で疑問に思っていた事をストレートに言いました。


今生の彼の言動を見てもはかりごとで人を貶める事はあり得ない。

細川忠興も一色義定殺害以外で人を騙して殺害するような事はしていない。

細川忠興を取り上げたYoutubeや記事で時折目にする通り、直情的な人でした。

戦についても物資の準備、作戦、家臣らとの連携、全てにおいて完璧に整えて、その上で場に応じて臨機応変に考え行動する人でしたので、やるなら正攻法で攻めたと思います。

(私の記憶にある、若かりし日の細川忠興)


それに加えてどの過去世においても媚びへつらうという意味ではなく、規律として

「上の言う事は自分の感情を押し殺してでも絶対服従」

という人なので、彼らしくない謀殺の裏には藤孝様のお考えがあったのではないかと感じています。



確かに藤孝様はお人柄が柔らかく包容力もありましたが、非常に賢い方でしたので本心を出さないところがありました。


もしかすると、光秀敗北は幼い頃から大好きだった藤孝様が望んだのだろうか…

本能寺の変の後、城内が混乱して殺されかけた玉と子供達を優しく守ってくださった藤孝様が光秀を死に追いやったのだろうか…



旧細川藩、佐賀関大火のショックに加え、そんなモヤモヤを抱えて過ごした2ヶ月でした。


それでも藤孝様は玉と子供達を守ってくださった事に代わりはありません。

藤孝様が光秀を憎んでの事であれば、玉と子供達の事も見殺しにしたでしょう。

藤孝様が光秀に加担しなかったのは光秀に計画の甘さかあった為だと思われますし、悲しくは思ってもやはり大好きだった藤孝様を恨む気にはなれません。



ちなみに1942年6月のミッドウェイの戦いでお亡くなりになった友永丈市大尉は、雰囲気がちょうど藤孝様と忠興の真ん中のような方で、優しい中にも芯の強さを感じるお方でした。

今でも時折大尉の事を懐かしく思い出します。





















昨年11月に大火事で壊滅的な被害を負った佐賀関では、避難所は年末に解体し、数日前に公費解体の受付も始まったそうです。


火事にあった田中地区の隣の神山地区には椎根津彦(しいねつひこ)神社というお社があります。


この神社のご祭神、椎根津彦命という神様は、実は神武天皇東征の折、水先案内をして神武天皇をお助けして国津神から天津神になられたお方で、宇佐神宮の神武天皇東征の碑文にその名が刻まれていたり、宮津の元伊勢とも言われる籠神社(このじんじゃ)にもその坐像があったりと重要な役割をなさった神様でいらっしゃいます。


また、佐賀関の早吸日女神社(はやすいひめじんじゃ)は神武天皇が通りかかった際、海底で大蛸が守っていた剣を真砂(まさご)、黒砂(いさご)姉妹が天皇に献上し、神武天皇が神剣として佐賀関で建国を請願したのが始まりで、紀元前667年の創建だと言われています。

地元では「権現様」とも言われて親しまれていました。


普通は神様にお仕えするのは馬や牛なのですが、こちらでは蛸が眷属となっていて願望成就のために蛸断ち祈願をしたりします。



大火事の際は椎根津彦神社の御神体が近くの早吸日女神社に移管していたというニュースを見て安心しました。


早吸日女神社は地元では霊験あらたかとされているらしく、私自身も病院で治らなかった病気があった時に祖父母に連れられて祈祷をしていただいた事がありました。


その時目を閉じていたにも関わらず、不思議な事に私の右後ろから髪がボサボサの巫女姿の女性が何か液体の入ったフラスコを差し出すのが脳裏にはっきり浮かびました。


「これは誰?」


と思ったものの、その一瞬の事なので他に手かがりも無く何の事か分からないままですが、それから良い医師や治療法に巡り逢えてトントン拍子で体調が良くなりました。



この初代天皇・神武天皇に縁のある佐賀関で、霊験あらたかとも言われる神社のある佐賀関で、何故あのような大火事が起きたのかと思っていたのですが、先日先生に仏様からの御霊示を伺うと、どうも罰当たりな事とは真逆で、人々を助ける為だったのだそうです。


生徒の皆さんがお金を出してお話しを聞いている内容ですので詳細を書く事は出来ませんが、とにかく佐賀関の皆さんはご神仏様にお護りいただけている事は間違いないそうで安心しました。


これからも田中地区の皆さん、佐賀関の皆さんが健康でいられるよう微力ながら毎日の修法で請願していきたいと思います。



Wikipediaからの画像ですが、早吸日女神社の瓦がとても立派で、龍神様が真ん中に鎮座なさっているだけでなく、瓦で出来た龍宮城と亀に乗った浦島太郎が飾られています。

今年こそはお参りしたい!








昨年も皆様のブログで勉強させていただいたり、目と心を楽しませていただいたりと、お陰様で楽しい一年でした。


また、遅々としたブログであるにも関わらずフォローしてくださっている皆様、訪問してくださる皆様、ありがとうございます🙇🏻‍♂️



年末には細川家ともご縁のある大分県佐賀関に行き、大火事の対岸から彼と一緒に修法をさせていただきました。


私自身、これまでもお世話になった方が病気になった時に彼と病気平癒の修法をさせていただいていました。

複数の癌があったにも関わらず手術直前に全て消えたり、もう一度癌になって手術しても5年生存率が非常に低いにも関わらず5年過ぎて一層元気になられたりしているのを見て仏様のお力の凄さを目の当たりにしては来ました。


なのに彼からずっと

「修法を真剣に覚えなさい」

と言われても、彼や先生のお弟子さんに任せて逃げていました。



今回佐賀関で修法していると、油断すると彼の身体がグラっとくるくらいの非常に強い風が吹いていたにも関わらず、ある段階まで進むとその風がピタッと止むのです。

それも2回場所を変えて行い、2回とも!

偶然では無く、修法による仏様のお力だとはっきり突きつけられ「本気で取り組まねば」と決意させられた年末でした。



本年もどうぞよろしくお願いします✨🎍✨

うみたまごにて

「笑う門には福(フク,フグ)来たる」

だそうです☺️


皆様の健康と益々のご発展を心より祈念いたします。

ニュースを見た時、ショックのあまり言葉が出ず、ここ数日Youtubeでニュース映像をくまなく見ていました。

知っている人が映っていないか、田中がどうなっているのか、知っている人の家は大丈夫か知りたくて。



随分昔に上げた記事ですが、生まれてくる前、前世でミッドウェイの海戦で死んだと聞いていた彼が目の前で掻き消えた直後、自分も死んだ事を自覚すると、お墓参りに来ていた母の口に吸い込まれるように入った出来事を書きました。


母の近くで祖父が休憩のために腰掛けていた階段、

それが今回の火事で燃えた東林庵。

祖父が私のために墓参りに行った場所が、あの佐賀関の田中でした。


佐賀関は江戸時代、肥後細川藩の飛地領でした。

過去世で夫だった彼と出会うまで、京都の細川ガラシャと佐賀関は結び付かなかったのですが、なぜか生まれたのは細川家の飛地領にある家。

私自身過去世で息子だった細川忠利が鳥居を寄贈した早吸日女神社で七五三のお参りをしました。

佐賀関のすぐ隣の臼杵市は、次女多羅の嫁いだ旧稲葉藩。
大好きな街でよく行きました。

侍女であった「るいさ」と彼女の子供を送り届けた豊後。

ガラシャ時代憧れた南蛮文化の最も色濃かった豊後。

私が自害しなければ、夫忠興と久しぶりに旅していたはずの豊後。


自覚しないままに関係する土地を選んで生まれてきました。

生まれ変わる時、ほとんどの方が自覚せずとも縁のある土地を選んで生まれてくるのだそうです。


小さい頃お墓参りや椎根津彦神社のお祭りで両親に連れられて行った佐賀関の田中が…



父がお祭りの夜店の間を歩いていると

「どげーな?(どうしてるん?)」

と声をかけられて

「あぁ、いいで。

また顔出さんせー。

(良いよ、元気だよ。また顔出しなよ。)」

と嬉しそうに応える。

そんなやり取りをよく目にしていました。


もう亡くなられたけど、大人になって一人で知り合いのおばちゃんの所に行くと

「とーちゃんは元気な。

はいコーヒー持っていかんせー。

(お父さんは元気か?

さあ、缶コーヒー持っていきなさい)」

と良くしてもらったり。


田中の方言は漁師町なのに、キツさや荒々しさを感じませんでした。

皆優しかった。


せど(背戸?瀬戸?)という、2m有るか無いかの小道が沢山ありました。

それが火事の拡大の一因になってしまったそうですが、人の距離も近くて温かみのある土地でした。


全国だったか大分県だったか忘れましたが、10年以上前にどこかの新聞の記事で

「近隣住民に支えられていると感じるか」

というアンケートに対して「はい」という返答が平均50%を切っていたのに対して、佐賀関は94%だか97%だかで、飛び抜けて高い数値だったというのを読みました。


今回あれほどの大火事で、放水ホースが何本も横たわって歩きづらい中で高齢者が多くて避難しようにもしづらい状況なのに、死者が火元の男性と思われる方一人だったのは、普段からお互いに声を掛け合い、助け合っていたからこそ。

逃げる人達はまだ家の中にいて火事に気付いていない人達に声をかけ、避難の時も助け合っていたそうです。



88歳の女性が、報道ステーションの取材に対して

「プレハブのような家でもいい。

これからも一人で住んでいきたい。」

と答えていました。


それに対してインタビューした男性は

「強いですね。」

と言っていました。


火災直後でまだショック状態です。

家も財産も全て無くなったばかりの方に対してそれは…と思ってしまいました。


歳を取ると子供達が心配して、街中の自分の近くの養護施設に入所させたり同居したりするケースが多いので、あの女性は

「慣れ親しんだ田中で一生を終えたい」

という意味だったのではないかと思います。



まだまだ多くの方が市民センターに避難しています。

田中のほとんどの人達が着の身着のままで焼け出されてしまいました。

寒くないか、食べ物や衣類は大丈夫か、病気になっていないか、色々と気になります。


道の駅の駅長さん、すぐに温かい食べ物や味噌汁を差し入れてくださりありがとうございました。



主人には

「最近豊後水道や日向灘で地震が多かった。

もしあの地域で地震が来たら、倒壊した家屋の下敷きと火事でもっと人が死んでいたかもしれない。

皆命があって良かったんだよ。

補償や支援もあるだろう。

生きていれば何とかなる。」

と慰められました。


とにかく佐賀関の皆さんの健康と幸せを祈り、募金し、見守り続けたいと思います。



三浦春馬さんと新垣結衣さん主演の『恋空』という映画で、新垣結衣さんが高校から階段を下っていく時、美しかった時の田中と東林庵、今回飛び火で一部火災にあった蔦島が映っています。


また活気のある田中が戻りますように。

















10月25日、フィリピン・マバラカット飛行場から特攻1号機の飛び立った日は沖縄から戦争で亡くなった方々に御供養させていただきました。


糸満市の沖縄平和祈念公園も行きたかったのですが、今回はそちらに行った事の無かった他のお弟子さんが行かれるという事で、場所を手分けして修法するために私達は沖縄北部の本部(もとぶ)や名護市に向かいました。


ずっと気になっていた本部町山川慰霊塔へ。

西に面しているので、この土地で亡くなった方々に御供養の修法をすると共に、マバラカットのあったフィリピンにも向けて御供養の修法をする事が出来ました。





以下に書き起こします。


「やすらかに

 ねむれ

   祈る


   碑文

字山川の慰霊塔は1950年5月、山川区青年団によって与那崎原の海を望む高台に建立されたものである。しかし1975年国際海洋博覧会開催に伴い、現在地に移転を余儀なくされた。以来30年、老朽化激しく建て替が望まれていたが、沖縄戦終結から60年の節目に当たる2004年暮れ、山川区民は戦没者の御霊を鎮め、恒久平和を誓う礎として慰霊塔の改築を決議、広く区民、郷友の志に浄財を募り、ここに、新たなる慰霊塔を建立したものである。

2006年6月23日

慰霊の日

字山川慰霊塔改築委員会」






艦艇・船舶つれづれ様


GAIYAの合縁奇縁様


色々と詳しく教えていただきありがとうございました。

改めて双方搭乗員の方々に御供養を続けたいと思います。


全ての戦没者の御霊が安らかでいらっしゃいますように。

11月13日は細川忠興公の誕生日でした。


これを書いている方は毎回

「ガラシャへ」と一言載せてくださっているのですが、本当に彼が言いそうな事ばかり。

細川忠興の魂をよく分かっているなぁと感心します。


熊本の皆様、細川家を愛してくださってありがとうございます🙇🏻‍♂️✨

熊本城おもてなし武将隊の皆様の益々のご活躍を祈念しています。



細川忠興の生まれ変わりである彼は初めて熊本城に行った時、お城真下の広場から天守閣を見上げながら

「松本城の黒い城を見上げて『見覚えがある』と思ったけど、こっちだったのか」

と少し呆然としていました。


熊本は三男の忠利が頑張って生きた土地。

熊本城、また行きたいです🥰

前回の『竈門の煙』先日彼と初めて髪長の時代の話になりました。たまたまテレビで竈門の煙の逸話を聞いた事で記憶が蘇ったそうです。「高津宮は大阪の中でも、あそこだけポコっと出て高台に…リンクameblo.jp

でコメントをいただくまで気付かなかったのですが、日向髪長媛が早く嫁入りしたり、平安時代に12歳で結婚していたのは、今の基準でいけばロリコンと思われても仕方ないのかもしれません。

答他伊奈さん、ありがとうございました。



当時女性が早くに嫁入りしたのは男性が性的嗜好で幼い女の子が好きだったからではなく(そういう人もいたかもしれませんが)、それなりの家柄であれば内側から崩れるのを防がなければならなかったためです。


幼いうちであれば、夫との接し方や服装、教養、婚家の立場や環境なども教育しやすかったですし、男性に興味を持つ年齢に至る前に婚姻関係を持つ事で他の男性に関心を抱く事も防いでいました。



もちろん権力者と姻戚関係となる事で嫁の実家にも多少の恩恵はあったと思いますが、権力の分散を防ぐためには妻や妾は幼い方が都合が良かったのです。


まして髪長は船で何日もかかる距離で日向の実家の影響はほぼありません。


それは逆に言えば後ろ盾が無いことにも繋がったので、髪長の死後遺された子供達には申し訳無かったです。


ですので、大鷦鷯尊は決してロリコンで髪長を好きになった訳ではなく、今生と同じく「昔の嫁だ!」と気付いたからだと思います。

今生の彼もそのような趣味は皆無です。



ちなみに大鷦鷯尊の妻、磐之媛は嫉妬深くて他の女性に対して攻撃していた事が知られていますが、朧げな過去世の記憶では、私は磐之媛に嫌がらせをされたという感覚はありません。


というのも、先に嫁いだのが髪長だったからというだけではなく、髪長が明智玉(細川ガラシャ)と同じくほとんど屋敷から出なかったから

幼い時は色々連れて行ってもらいましたが、大人になると部屋で庭に植えられた木蓮に似た紅白の花を愛でて過ごしていた気がします。

細川忠興が玉にしたように、髪長も大鷦鷯尊に大切に守られていました。


それから、応神天皇が「胎中天皇」と呼ばれたように、当時は末子相続が慣例だったので、大鷦鷯尊が他の女性と仲良くして子供が出来ると磐之媛は自分の息子の立場が危うくなる不安もあったから、他の女性が夫に近づくのを嫌がったのかもしれません。

いくら武内宿禰命の孫とは言え家臣の血筋なので、先代天皇の血を引く八田皇女や同盟国の支配者層の娘などには家柄としては太刀打ち出来なかったのだと思います。




先日彼と初めて髪長の時代の話になりました。

たまたまテレビで竈門の煙の逸話を聞いた事で記憶が蘇ったそうです。



「高津宮は大阪の中でも、あそこだけポコっと出て高台になっている。

昔そこからお前と平野を見下ろしていた。

お前はちょこんと座っていたんだ。

一緒に煙を見ていたよ。」


「その時の私はいくつくらいですか?

全く記憶に無いんですが。」


「14くらい。

昔は輿入れの年齢も早かったから。」



という事は、その頃すでに先代の誉田別尊(第15代 応神天皇)は崩御されていたという事。

Wikipediaによると、彼が20歳でお父君が亡くなられたそうです。

ちなみに自分が髪長とするなら、私は25〜6歳の時に上の子が9つくらいで死んだ気がします。


髪長媛が日向の父の命令で誉田別尊の元に送られたのは

・ 誉田別尊が崩御された時には一緒に殉葬されて、死後もお仕えするためだった

・ 6〜7歳で大阪に送られたが、その後大鷦鷯尊に輿入れしたのは9歳くらい

という私の朧げな記憶と、彼の過去世に関する記憶に齟齬はないという事になります。



お父君、応神天皇の詠んだ詩に髪長の年齢を推測させる詩があります。

ただし、当時の女性がいくつで結婚していたのか不明なので髪長媛の正確な年齢は分かりませんが…

当時の婚姻年齢としては幼過ぎないけども、適齢期には至っていない年齢を指しているようです。

平安時代の女子は12歳から結婚していたそうですし、私の感覚からもそう外れていないように思います。



誉田別尊の詩からもう一首。

これは髪長を息子に譲る事を悔しがる詩と解釈される事もありますが、上にあるように

「(国を治める立場にありながら)息子の気持ちに気付かなかった自分は愚かであった。悔しく思う」

だと思います。


大鷦鷯尊の方から武内宿禰命に髪長との仲を取り持ってくれるよう頼んだという説がありますが、おそらく大鷦鷯尊はそうしていません。


大鷦鷯尊は誉田別尊(応神天皇)から次期天皇は誰が良いか尋ねられた時に、弟に継がせたいと思っている父の意を汲んで弟君の名を答えました。

細川忠興が織田信長様や豊臣秀吉に対してしたように、彼は自分の気持ちを抑えて上位の方に懸命に尽くし従う所があります。


当時髪長だった私は子供だったので全て推測になってしまいますが、かつて妻だった私に気付いたものの、殉葬が決まっていた髪長をどうしたものかと思い詰めていたところを武内宿禰命が気付いて応神天皇に進言なさり、髪長は大鷦鷯尊に嫁ぐ事になったのでは。

それに対する大鷦鷯尊の感謝の気持ちが武内宿禰命の孫である磐之媛の、大鷦鷯尊への輿入れに繋がったのではないかと思います。



(詩については下記リンクよりお借りしました。)




私の過去世に関する記憶が真実であるとするなら、

 明智玉(細川ガラシャ) = 日向髪長媛

の魂という事になります。

2人とも絶世の美女扱いなので、至って普通の自分が

「私の過去世」として語るのは本当に申し訳ないです🙇🏻‍♂️


ただ、細川忠興の魂の良い一面を知っていただけたら幸いです。







ここしばらく法生先生のノートを見返して整理していました。

法生先生にはお祓いや霊視で相談に乗っていただいたり、死後の世界やご神仏様の世界についてお話しいただけるだけでなく、世界情勢や投資、fxなどお金の事についても教えていただいています。


先生の毎年の御霊示のお陰でコロナや戦争など、世界で起きる事の衝撃に備える事が出来ました。



その中でも今回は投資やお金について反省。


法生先生が4年前に

「インフレが来るよ。

昭和20,30年代には毎年倍近く値段が上がって行った。

そんな時代がまた来るからね。

物を大事にしておくんですよ。

投資の技術を身に付けておくんですよ。」

と仰っていたのですが、その時は現実味がなくてノートに留めてすっかり忘れていました。

先生も

「長いデフレで生きてきた人達には実感が無いと思うけど」

とわざわざ仰ってくださっていたので、もっと意識に留めておくべきでした泣



今や食品の多くが1年前の2倍…


昔からコストコで72%のチョコレートを買っているのですが、3年前は2,400円だったものが2年前に2,800円になっていて

「高いなー。ちょっと待とうかな。」

と思っていたところ、彼の

「まとめ買いしておこう!」

の一言でまさかの3箱購入


ところが1年前には1箱4,900円!


現在コストコオンラインでは送料込みの値段なので店舗よりやや高めですが、更に値上がりして5,000円越え継続中。


https://www.costco.co.jp/c/MEIJI-Chocolate-Effect-Cacao-72-47-packs-X-6-Bags-1410g/p/16097




先生の仰った「インフレ」をすっかり忘れて2,800円のチョコレートを「高い!」と思った私と、「これからまだ値上がりする!」と判断した彼。



彼の過去世の細川忠興も、賢い人の話をちゃんと聞いて決断も早かったです。

現在細川忠興のおこした三斎流茶道が、利休の方式をもっとも色濃く継承していると言われるのも彼の

「賢い人の言う事には忠実に耳を傾ける」

という真摯な姿勢によるものだと思っています。



法生先生については、他にも10年以上前に

「彼が誕生日プレゼントをくれるって言ったら石の付いた指輪とかじゃなくて『金がいい!』って言うんですよ!

1gから買えるからね。

資産のうちの一部は金にしておくんですよ。」


と言われていたのに

「貴金属店の敷居高いなー。近くに無いしなー。」

と逃げてしまった私。


当時の金価格 →   約5,000円

現在の金買取価格 →   20,138円


4倍強ガーン




他にも

「ビットコインが0.001?(はっきり覚えていないけど、当時175円分だったそうです)当たるキャンペーンをしている証券会社があるから口座開設しておくと良いですよ。」

と言われていたのに、

「当たらないだろうし当たっても少額だし」

と思って口座開設せず…


言われた通り口座開設をした生徒さんの中には何人もビットコインが貰えた人がいたそうです。

そして生徒さんの中にはタダでもらえたので放置していた人が多かったらしくて、最近先生に言われて確認したら45,000円になっていたのだとか。

確かキャンペーンが4〜5年前でしたが、放置していただけで

175円 →     45,000円

約247倍ガーンガーン


というか、元手が口座開設だけだから、実質

  0    →   45,000




昨年

「こういう分野に注意しておいてね」

と言われた会社の株価を見直したらどれも値上がり。








他にもNVIDEAも株取引は苦手意識でスルーしていたら、10年で100倍の値上がり絶望



苦手意識ダメですね泣

彼のように賢い人の言う事は自分を捨てて忠実に実行せねば、と反省する事しきりです。