今回は私の魂が最も避けたい話、過去世で明智玉(細川ガラシャ)であった時代に起きた『本能寺の変』について書きたいと思います。
以前玉(ガラシャ)の侍女るいさや、号泣しながらもガラシャの介錯をしてくれた家臣金津助次郎について書いて気持ちが楽になった事があったので、本能寺の変についても少し吐き出させてください。
昨年末の録画ですが、一昨年明智光秀の築いた坂本城の石垣が発見されて研究が進んでいるらしく、坂本城城下町について取り上げているテレビ番組を見ました。
何故かそれを見ながら
「このような石垣は見覚えがある。
父らしい城下町だな。
街作りは好きだったしな。」
と激しい郷愁の思いに駆られました。
いつもの如く、なぜ「父光秀は街作りが好きだった」と思ったのか自分でも分からないのですが…
私の記憶にある光秀は、戦が嫌いでした。
戦に行く前は眉間に皺を寄せて苦悩に満ちた顔をしていました。
明智玉として生きた時代、私が幼い頃はよく仲間と囲炉裏を囲んで談話する父のあぐらの上に座らされていたのですが、父としては私を可愛がっていたから側に置いたというだけではなく、幼い女の子を同席させる事で
「妻や子供のためにも生きて帰りたい」
という思いを仲間の心に呼び起こさせて、自然と皆が無謀な言動を控えるよう仕向けるためでもあったように思います。
また、この過去世での私が小さい時に遊んでくれた家臣のお兄ちゃんが父の迎えに来た際、私に手を振りながら出征して行くのを寂しく見送った記憶があります。
仲良くしてくれたお兄ちゃんに付いて行きたい、囲炉裏を囲む父や藤孝(出家後、細川幽斎)様達の話をもっと理解出来るようになりたい、という思いもあって6歳を迎える頃には玉は「戦に連れていって!」と言う面倒臭い子供に育ちました。
信長様が幼い頃の私を
「これは男であれば立派な武将になっただろう」
とお褒めくださったという逸話が残っていますが、そのお言葉そのものは私の記憶に無いものの、私が父に「一緒に戦に行く!剣を教えて!」と言っていたこの頃の出来事だと思います。
戦嫌いの父は、何故謀反を起こしたのか。
以前アメブロをなさっていた方で、
「過去世で自分は鉄砲撃ちとして光秀本陣にいた。
天王山の戦いにも参加し、恵解山(いげのやま)の西側で死んだ。」
とおっしゃる方とやり取りをさせていただいた事がありました。
その方の今生での過去世の思い出し方、トラウマの引きずり方は本物であるように感じました。
その方は
「銃を扱えたので光秀本陣に組み込まれたが、元々は村ごと人質に取られていたので光秀に従わざるをえなかった」
のだそうです。
私がその娘であるにも関わらず、
「あの時代、それはしょうがない事だった」
と、慰めてくださった上に色々教えていただいて本当にありがたかったです。
その方は
「烏丸を目指して桂川を下って鳥羽の辺りに差し掛かった頃、行軍が伸び切った頃に後方の部隊が本能寺を襲撃したという報せが光秀のもとに届いた。
光秀は驚いていたが、その後責任者として行動せざるを得なかった。」
とおっしゃっていました。
本能寺の変は光秀の本意では無かったのかもしれません。
先日録画をようやく見た『歴史探偵』という番組では
「2021年に『本能寺へは部下を差し向け、光秀は鳥羽に控えていた』という資料が発見された」
と言っていました。
光秀本陣にいたその方とのやり取りは2021年以降であったものの、その方が2021年に発見された資料の内容を知って話を作ったのであれば
「光秀は部下を差し向けて自分は鳥羽に控えていた」
とするはずで、
「予想外の本能寺襲撃に驚いていた」
とは言わないはず。
ですので、私は以前と変わらずこの方の
「本能寺の変襲撃は光秀の本意では無かった」
との言葉を信じています。
ただ、光秀家臣の斎藤利三(春日局の父)の息子だったと思いますが、
「光秀が信頼する家臣数名を集めて信長様を倒す意向を伝えたところ、『話がどこから漏れるか分からないから、実行するならば早い方が良い』との声が上がった」
との証言をしたという記載を目にした事があります。
これが本当であれば、光秀は信長様を討つ機会を前々から伺っていたものの光秀の意を汲んだ重臣が光秀の号令無くして本能寺を襲撃したものであって、タイミングが光秀の思ったものではなくて「動揺した」という可能性も考えられます。
私の過去世の記憶にある天正10年、宮津に孫の顔を見に来た光秀が縁側で物思いに耽っていたのは、信長様への謀反の根回しをしようと藤孝様に話をしたものの、良い返事が得られなかったためかもしれません。
そうであれば本能寺の変直後、細川藤孝様が
「信長様の菩提を弔う」
と早々に出家を宣言したのも、光秀の計画に甘さがある事を知っていたものの自ら光秀に刃を向けるのをためらったためであったと考えられます。
一方で先日彼と話していた時に、細川忠興の一色義定謀殺の話題になりました。
本能寺の変で藤孝様が隠居なさった後、細川忠興が妹婿である一色義定を宴席と称して呼び出し殺害したという事件です。
「俺が細川忠興だったとして、そんな事するか?」
と、それまでずっと私の中で疑問に思っていた事をストレートに言いました。
今生の彼の言動を見てもはかりごとで人を貶める事はあり得ない。
細川忠興も一色義定殺害以外で人を騙して殺害するような事はしていない。
細川忠興を取り上げたYoutubeや記事で時折目にする通り、直情的な人でした。
戦についても物資の準備、作戦、家臣らとの連携、全てにおいて完璧に整えて、その上で場に応じて臨機応変に考え行動する人でしたので、やるなら正攻法で攻めたと思います。
(私の記憶にある、若かりし日の細川忠興)
それに加えてどの過去世においても媚びへつらうという意味ではなく、規律として
「上の言う事は自分の感情を押し殺してでも絶対服従」
という人なので、彼らしくない謀殺の裏には藤孝様のお考えがあったのではないかと感じています。
確かに藤孝様はお人柄が柔らかく包容力もありましたが、非常に賢い方でしたので本心を出さないところがありました。
もしかすると、光秀敗北は幼い頃から大好きだった藤孝様が望んだのだろうか…
本能寺の変の後、城内が混乱して殺されかけた玉と子供達を優しく守ってくださった藤孝様が光秀を死に追いやったのだろうか…
旧細川藩、佐賀関大火のショックに加え、そんなモヤモヤを抱えて過ごした2ヶ月でした。
それでも藤孝様は玉と子供達を守ってくださった事に代わりはありません。
藤孝様が光秀を憎んでの事であれば、玉と子供達の事も見殺しにしたでしょう。
藤孝様が光秀に加担しなかったのは光秀に計画の甘さかあった為だと思われますし、悲しくは思ってもやはり大好きだった藤孝様を恨む気にはなれません。
ちなみに1942年6月のミッドウェイの戦いでお亡くなりになった友永丈市大尉は、雰囲気がちょうど藤孝様と忠興の真ん中のような方で、優しい中にも芯の強さを感じるお方でした。
今でも時折大尉の事を懐かしく思い出します。



















