この間、上林が亡くなったことを財務省からの連絡で知った時、あゝ、倉橋はどうしているかな、と思った。早速電話をしたら、彼の声は少しかすんではいたが、確かであった。

 「おい、一高の仲間も俺とお前の二人になってしまって、淋しいな。そのうち、二人でメシを食ってクラス会の式でもやるか、と言っていたら、彼もそうしようと、賛成した。しかしまだ果たしていない。

 何年か前に、柏木からクラス会の案内があって、丁度時間があったので、出かけた。学士会館の食堂にはそれらしい会合がやっていないと言う。集らないのかなと、食堂を一巡すると、柏木と倉橋が差し向いで食事をしていた。私の顔をみて、これでクラス会になる、というのが、倉橋だったかの挨拶であった。

 お互い九〇近くなったが、昔の顔はどこか残っていて、久しぶりに久闊を叙たことがある。

 それ以来あっていない。

 倉橋とは文二の一般部屋で一緒であった。十数人の自習室では、いつもかんかんがくがくの議論をしていた。そして、酒を飲んでいた。

 あの年の部屋の食物は、「桐二葉落ちて天下の秋を知る」という句を色紙に書いて、ヒモにぶらさげるだけの、手抜きもいい所だが、味のある句であった。あれは六十九連勝をしていた横綱双葉山が安芸海は破れた時であった。「相一葉」という題名で書かれた小説がある。誰かの、今はちょっと思い出せない。

 倉橋はなかなか鼻っぱしも強い男であった。寮の中では、若者らしく、文学論などを闘わすことが多かった。ただ、今から思えば、不思議なことに女の話などは一切したことがなかった。

 あれも、北寮十七番に住んでいる時だったと思うが、茨城出の野口が、夜這いの話を始めたことがあった。皆、本当は興味はないことはなかったと思うが、同室の皆がほとんど一斎に「シイ、シイ」と不愉快の声を挙げたので、野口もそれからはその種のことは口にしなかった。そういう部屋の空気であり、又、時代であった。

 口論はしょつ中だったが、ある時、倉橋と同室の山崎と取っ組み合いの喧嘩を始めた。原因は何だろうか、覚えていないが、初めは大したことではなかったが、そのうちお互いに本気の喧嘩となって来た、部屋には何人もニヤニヤ笑ってながめている人もいたが、いよいよ本気となって来た取っ組み合いの二人をやっと引き離すことができた。お互いにソヤツを破れるばかり引っぱり合っていた。倉橋の相手は山崎であった。同じ文二のクラスメイト。

 彼のことについては別のところで書いたと思うので省略するが、私にとっては最も親しい友人の一人であって、文学好き。家は神田の大きな出版会社。小さい時から芝居を見て育ったような男であった。

 倉橋は確か信用金庫の専務をして、会社を相手に訢訟をしているようであった。中味はタッチしていなかったので、覚えていないが、彼の正論が通じない、というのが事実のようであった。それだけに、会社も彼を首にすることもできないようであった。

 その後何十年会っていない。この間電話をしたように、お互いに会えなくなる前に学士会館ででも食事をしたいと思っている。

 柏木もクラスの仲間で親しくしていた。一度メシを食う、と言っている間に彼は亡くなって了った。同じ成城の町に住みながら、どうしても会う機会がとれなかったのだろうか。今更悔やんでも仕方がない。

 ともあれ、往事芒々である。