29・4・8 

今年は、例年よりも東京では桜が咲くのが一週間ぐらい早かった、そうである。

 わが家にも、桜の木は何本かあるが、うち三本は樹令百年は超えていて、区の保存木となっている。も一本は枯れた。うち一本は水上桜と呼んでいて、同じ成城に住んでいた水上勉さんから菌頂戴したものなので、そう呼ぶならわしになっている。

 勉さんと知り合うようになったのは、今から半世紀も前のことであった、お互いに遊び盛り。たしか、銀座の「チンチラ」というバーで私の親友の兄の彼女の経営している、銀座では新しい店であった。

 お互い同じ年、私は勉さんと呼んでいたが、彼の本の愛読者でもあった。

 ナベプロの毎年軽井沢で催すゴルフの会で家内も入れて同じ組で回ったこともあるが、当時は軽井沢に家を持つことがゴルフクラブの会員になる条件だった。勉さんは既に一軒もっていた。

 「相沢さん。役所を止めたら、詰らない政治家なんぞやらないで、私と一緒に軽井沢でゴルフをしましょうよ。それには軽井沢に家を持たないといけないが、ちょうど私の家を世話してくれた不動産屋がよさそうなのがあると言っていたから、どうですか、と言う。

 一五〇〇坪ほどの土地を私の友人と二人で買うことになった。

 夏の軽井沢は住む値打ちがある。ことに夏はいい。

 勉さんは京都も好きで、よく通っていたが、私も若い頃京都で税務署長をしていたので、お互い飲む場所を知っていたし、楽しく夜をすごしたりしていたが、彼は軽井沢から小諸の近くへ引っ越し、何を思ったか、窯を築いて骨壺などを焼いていたが、間もなく亡くなったという報を聞いた。

 その家を訪ねたのは彼の没後一週間ぐらいではなかったか。

 彼の部屋は、何から何まで使っていた時のとおりとなっていた。小さな骨壺も見た。

 あれから、何年経っただろうか。桜の木はすくすくと育って、毎年美しい花を咲かせている。

 水上桜。その桜を見ると彼を想い出す。人間ははかないものである。