28・7

 いつみてもすがすがしく、楽しいのは高校野球である、選挙区から境高校などが出ることもあって、応援で甲子園にも何度となく通った。

 言うまでもなく選抜は毎日、夏の大会は朝日の主催である。

 戦前は無論テレビなどはなかったし、NHKのラジオ放送だけであった。小学校の頃の私の家にはまだラジオがなかったのか、あってもよく聞こえなかったのか、その日も隣家の息子、といっても大分年上のお兄さんと決勝戦の放送を聴いていた。

 中京商業と明石中学との激しい試合で、九回どころか二十回を過ぎても0対0で勝負がつかなかった。

 今は名を思い出さないが、両校とも一人の投手が投げ続けていた。私はノートブックにスコア―を書き込んでいたが、足りなくなって、紙を継ぎ足して〇書いていた。

 アナウンサーの声も涸れて、必死にどなるような調子になって来たが、ついに二十五回目に中京が一点とって優勝ということになった。

 よくまあ投げ続けられたものだと思ったが、残念ながら投手の名は思い出せない。それにしても、若い人の体力は怖るべきものだ、と思った。その時のノートが残っていたらな、と思うことがあるが、皆、空襲で焼けて了った。

 ベーブルースやゲーリッグといつた米国の有名な選手が来日したのは、確か昭和九年、私が中学二年の時であった。

 朝から横浜球場へ出かけて、すし詰めの球場で立ち放しで午後のプレーボールを待っていた。かんかん照りの球場での立ちつくしは苦労であったが、午後の試合開始となったので文句を言う人はなかった。

 日本でもプロ野球が誕生することになったのはその翌々年の昭和十一年、東京巨人軍で、かの有名な沢村投手の活躍はそれからであった。

 当時は、六大学のリーグ戦が花形であって、球場も狭かったせいか、私の見た日米の試合は、日本側は六大学の選手が主だった、顔振れであった、と思う。

 アメリカ側はベイブルースの三本を初めとしてホームランを十一本、日本側もつられて三本のホームランを放った、と記憶しているが、いささか不確かである。もっとも、あの球場は今よりかなり狭かったように思う。

 朝日新聞を見習ってか、毎日新聞が高校選抜の野球を始めたように思う。勝ち抜きではなく、過去一年の実績などを評価して出場校を決めているようだが、も一つ納得のいかないところがあって、どうかなと思うところもある。

 それにしても、高校野球はプロ野球に較べて進行もキビキビしていて見た眼にもすがすがしい。日本のプロ野球もアメリカのそれのようにも少し試合時間が短かくなるように努力したらよいと思う。

 近年サッカー・ブームに喰われているようだが、野球の面白さは変わらないという、私どものようなファンのためにも、少々の改革があってもいいな、と思っている。