28・2・28

 私は、今も新聞は七紙とっている。朝、毎、読、日経、産経、東京の六紙と地元鳥取県の一紙である。

 朝読む暇がないので、それを抱えて事務所に行く。時間がなくてそのまゝ持って歸ることの方が多いが、寝るまでには、必ず一応眼を通すことにしている。もう何十年も続いている習慣である。

 といって、全部を読むことは無論不可能であって、見出しだけを見るに終えることもあるが、今世の中ではどういうことが問題になっているかが、わかるような気がする。

 見出しでなお読みたいと思った所があれば、そのページを裂いておき、時間のある時に読む。

 変なことを言うようだが、各紙真先に見るのは死亡欄である。近頃は私より若い人の亡くなるのが少なくないし、又名前を知っていない人が多くなって淋しい思いがする。

 あゝあの人がなくなったか、と思い、昔のことをいろいろ思い出すこともある。

 新聞は、テレビ、ネットなどのお蔭で、販売部数が激減したし、又、広告収入がひどく落ちた、とある大新聞の社長が嘆いていた。そう言えば、新聞をとらない家が増えていることを聞いている。

 然し、私どもにとっては新聞は便利で先ず一覧性がある。多くのニュースが並んでいる中で、バツと読みたいところを知るには新聞が一番である。

 そして、もう一つ言えば、新聞には大なり小なり個性があり、その違いを瞬時に知ることができる。世の中の出来事一つについてもいろいろな見方があるものだな、ということもわかる。

 そして、その新聞の考え方の差はどこから出てくるのか、と考えた、新聞の首脳部の考え方がやはり影響しているのかな、と思ったり、又、その考え方もよくはわからないが、わかってくることもある。

 そして、も一つつけ加えれば、折込み広告のことである。これが多い新聞はまあ発行部数の多いものだろうと思うが、家や土地など不動産の広告が多くなってくるのは大体景気がよくなってくる徴候であるし、減ってくると反対の時である。又、土地売買の価格も少しずつ変化してくるから妙である。

 ま、こんなところかな。