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 私は、三十四軍司令部付の主計将校として、昭和二十年七月の初め頃中支の漢口から関東軍の隷下の軍に所属するようになった。

 山海関を通過して新京の司令部に挨拶をして咸鏡南道の咸興に着いたのは七月も半頃であった。

 朝鮮は昭和十九年の五月釜山に上陸し通過部隊として通り抜けたに過ぎなかったが、さて着任してみると先ず困ったのが宿泊施設の世話と日々の給与であった。

 北朝鮮は地下資源に恵まれているようなことを聞いているぐらいで、予備知識に乏しかったが、さて、経理としての仕事を初めてみると、ないない盡しのようなもので、先ず炊飯や暖をとる燃料の調達に苦労した。

 朝鮮は山だらけと聞いていたが、森林は育っていなくて、薪の調達も簡単ではなかった。そこで、日本式に各個の家が板屏で囲まれているのに目をつけて、屏をいささか高い値で買いまくった。何とか用は足りたが、警察から、屏のなくなったお蔭で泥棒が多くなったと苦情を言われたのに参った。

 第三十四軍は二ヶ師団、一ヶ旅団の新編の軍であった(八月六日だったか、編成完結)したばかりであったので、部隊長の馬には馬具がなく、牡丹江から一ヶ大隊の重砲部隊をつけて貰ったのに、大砲の弾丸は一門につき数発というような装備で体をなしていない。経理の私は奉天や大連に出張してテントや毛布を受領して来るように命じられていて、八月十五日の朝、京城に着いたような状態であった。

 もう、敗戦となってからの部隊の惨状をいろいろ並べてみても仕方がないので省略するが、朝鮮は日本の一部であったのに、八月十六日の朝からは例の旗を揚げて戦勝国として、軍のあらゆる行動を制限する始末であった。

 その後の経過は言うまでもない。南北に分かれた朝鮮の北の部分、つまり北朝鮮はどうなったか。

 一口にして言えば、民政を犠牲にして実力不相応な軍備の拡大に狂奔しているではないか。この眼で見ていない私達が確かな物を言うことはできないが、一将功なり万骨枯るという昔の言葉を思い出させるような独裁体制であることは確かであろう。

 原爆まがいのロケットを打って軍事力を誇示しては、何とか他国から物資を曳き出そうとする作戦が果たして何時まで続くものか。

 中国やロシヤが有朋らしく支援を務めて来たことは間違いないにしても、之また、このまゝ続くものだろうか。

 将軍様の栄譽のために、あらゆるもの、とくに民政の安定を犠牲にしている現状は、間違いなく人道問題ではないか。

 一国民のことではあるが、世界の不幸の一環である。何とか、この体制を崩せないものか、もっと国際的な努力が要るのではないか。