28・2・2016
大陸縦貫2000キロと言われた作戦は、昭和十二年七月七日の北京市郊蘆溝橋で発生した日中事変が全支に拡大し、それが又日米開戦からいわゆる大東亜戦争へと拡大した。
戦争の当初は日本軍が破竹の勢いで進撃をしていたが、米国の圧倒的に豊富な物量の援助を受けた国民政府軍と国共合作が成立し、抗日戦線が統一された。
一方伸びるだけ戦線が伸びきってしまった日本軍はミッドウェイ海戦の大敗後はいよいよ不利となりつつあった戦局を打開し、南方圏域と日本とを結びつける陸上補給ルートを確立するため大陸打通作戦を展開することとなった。
北京と漢口とを結ぶ京漢線打通作戦に次いで、衡陽と広東とを結ぶ粤漢線打通作戦を開始したが、湘桂作戦は湘桂沿線にある米軍基地を履滅することを目的とするものであった。
本書はこの作戦に従事した部隊の戦斗状況について、全面的ではないが細部にわたり、かなり詳しく述べている。惜しむらくは、致し方ないところでもあるが、全体的な俯瞰にいささか欠けるところがある。
私は、この本の中にも出てくる第十一軍が前線に出動した後を受けて武漢地区に駐屯した第三十四軍の司令部にあって主計将校として対日還送物資の収買、輸送を担当した調弁科の主任将校の一人として日夜働いていた経験を持っている。
それは、陸、海及び大東亜三省の現地協定による収買一元化によって陸軍に託された物資調査業務の担当であった。楊子江の中流に所在し、住古より武漢三鎭といわれた漢口、武昌、漢陽は中支の物資収集の中心的存在で、とくに漢口は日本の大商社の出先を始め日本人商社員三千人を擁する一大據点となっていた。
私は、若冠二十四才ながら鉄、非鉄の収買、全調達物資の梱包輸送を担当する主任将校として勤務していた。収買物資のうち銅は砲弾の薬きょうの材料として特に重要で、銅貨年一万トンの収買を目標としていた。
物資の輸送には主に鉄道、トラック、船舶(楊子江、漢水)を利用していたが、米空軍の銃爆撃にさらされながらの作業となって、制空権を失われての戦斗の悲劇を十二分に味わされた。
いろいろなことを想い出しながら読んだこの一書は物足らなかったが、往時活動した中支地区の各都市の名前に懐かしい思い出が数多く、戦友、今はあらかた亡くなった戦友の名前を思い出しながら読了した。往事茫々。