27・12・1

 家内と結婚した時、それぞれが家をもっていた。私は目黒の平町、家内は成城であった。私は、大蔵省の役人であったので、辞令一枚であちこち家が変っていた。役人は、勤務先が変れば転居するのが当たり前におもっていたし、それだから公務員宿舎も準備されていると思っていた。

 時に、公務員はいい所に安い家賃で宿舎に入れるのは怪しからんというような意見が、出たり、消えたりしているが、辞令一本で動かされて文句が言えない公務員の勤務と併せ考えれば、公務員宿舎の必要性もわかって貰えると思っていたが、そうでもないらしい。

 尤も、この頃一般の公務員は、転勤を好まず、多少の出世を犠牲にしても、住でいる場所を動かない方を選択する傾向があるから、いささか昔と事情は違って来ているとも言える。

 例を挙げれば、税務署の署員で優秀なものに目をつけて、本省へ引っぱって来ようとすると、昔は名誉であると喜んでくれたのであるが、この頃は、有難い、と思わないどころか、有体に言えば、余計なことを考えてくれるな、と言わんばかりの人も多いと聞く。

 住宅金融公庫が安い金利で申込者に殆んど無条件で貸すようになった頃から、その傾向が強くなった気がする。家も作ったし、子供は転校を嫌がるし、そのまゝにしておいて下さい、と言う人が多くなった。

 私は、近畿財務局長として大阪に一年間住んでいたが、近畿地区は大阪に住んでいれば、何処えでも一時間以内で通えるような地理的条件にあるので、一層、彼等の言うことも無理ならぬような気もしてならなかった。

 ちょっと、話が横に拡がったような気がするが、要は、長いこと自分の家を持っていなかった私も、知人にも勧められて、やっと自分の家を持つような気になって買ったのが平町の一戸建ての建売住宅であった。

 土地は五五坪、建物は、何だかその割に数が多くて、一階に玄関、十畳の応接間、六畳二間、三畳一間、風呂、台所、二階に六畳二間、四畳半一間、二畳一間といった工合で、間数だけは多かった。それに小さな庭。

 家内の成城の間は、その倍以上の大きさであったし、とてももとの持主が中国人であったとかで庭も広く、成城らしく、全体にゆったりした感じであった。

 先妻との間に二人の男の子がいたが、私と家内は、最初は、二軒の家を一月毎行ったり、来たりしていたが、そのうち面倒になって成城に定着するようになった。平町の家は横浜で借家をしていた父夫婦に住んで貰うことにした。父が営々として乏しい給料から節約して立てた横浜西竹の丸の家は、競馬場に近く、いい環境にあったが、戦災で全焼して以来、あちこちを転居していたので、横浜を離れることは余り好まなかったように思うが、平町の家に住んで貰うことにあいなった。

 結婚に致る迄にも成城には何べんとなく通って来ていたが、小田急電鉄が開拓した住宅区域であって、昭和四十五年結婚当時は駅周辺にはそれなりに店屋もあったが、夜などは人通りも多くなく、いわば成城学園を中心とする学園町であった。それから、四十余年、成城の町も膨張して、いろいろな店も出来、すっかりとは言えないにしえも、かなり変容して来たように思う。

 しかし、成城は駅周辺は別として建築基準法で建蔽率四〇%、容積率八〇%、高さ制限一〇メートルとなっているので、高層住宅は見られない。調べてないが、田園調布あたりもそうではないか、と思う。

 しかし、規制は何でしていたか、調べていないのでわからないが、鉄や石壇など、とにかく外から見えない塀を作らないことになっていた、と聞いている。今では、そんなことはないと思うのは、コンクリートの塀などもよく見かけるからである。

 隣りは何をする人ぞ、と言うが、成城の人々も交流は極めて少ないので、隣りに誰が住んでいるかは、殆んど関心がない。それでも年に一回成城祭りと称して、人が集っているが、ただ一本のメインストリートに露店などが並んで、たこ焼きの臭いなどをただよわせているに過ぎない。不用品を持ちよって、バザーを開いている。とても安い値がついているが、売りたいものは、買いたくないものが多いときている。

 成城の祭りは丁度桜の花満開になる頃を狙って開かれる、挨拶をする程見知っている人も少ない。

 しかし、成城の家は、一つとして同じようなものが見当たらない、と思う様、様々な形態をしている。時々、歩いてみるが、写真にとっておきたい家も少なくない。

 随分考えてデザインをしたと思える家もあるので、眺めて歩くのも悪くはない。表札も様々で、大ていは縦書き二字であるが、横書きもあるし、ローマ字だけのものもよく見かける。

 高さ制限の関係もあるのか、マンション風の家は少ないが、なくはない。ただ、車は殆んどの家で持っていてそれも、外車、とくにベンツが多い。BMWも割と見る。車庫は様々であって、前庭にただ置き場所がある、というのもあるし、二台きれいに並んである家もある。

 小田急が路線と一緒に開発した頃は、整然と区画を整理して作ってあったのかもしれないが、だんだん駅から遠くへ開発されるに従って、田圃路を舗装したと思われるところが多くなって来て、道も細く、真直ぐではなくなってくる。

 成城には戦前は大学がなく、高校があったに過ぎなかったが、いわば、いいところの坊ちゃんなどが多かったと見えて、進学校となっていたし、東大などに入学する生徒もすくなくなかった。 

 成城幼稚園に入れば、小、中、高、大学と階段を昇って卒業できるというので、なかなか人気はあるが、特に女子の入学志望者が男子よりも多い。幼稚園の園児志望者の試験ともなると、小学校入学前の試験だから、学力テストという訳にはならないので、もっぱら父兄のテストのほかは、先生に見知ってもらうしかないからか、試験の一年前ぐらいから運動会や学園祭などにせっせと顔を出して、一家の人と入園志望者を見知っておいて貰うしか手がないと言うことになるのである。それに学校に通うのに一時間以内のところに住んでいることが必要なので、そのために成城に引っ越す家も少なくない。入って了えば、いいというので、入試頃だけ成城に住もうという家もあるようである。

 成城の住人の家は本当に様々のデザインであって、散歩してとくに面白い家はカメラに収めておくことにしている。

 なかなか進行しないので、やきもきしているのが都市計画との関連である。わが家も太い道路の予定地にぶっかっている。もしそれが実行されれば、ほとんど庭もなくなって仕舞うと聞いているので、反対同盟の文章にサインを欠かさずしている。どうも客観的に見ても、どうしても二〇メートルも拡幅しなければならないようには思えないので、反対署名のお仲間に入っている。困るのは、予定地の上は鉄筋コンクリートでは家は建てることはできないのである。

 都会の開発も反対ではないが、何十年も計画のまゝでぶら下げておられては甚だ迷惑なので、一旦決めても、どうも必要はないとなったら、さっさと計画を変更してくれたらよいと思う。都も議会の関係などからして、一旦決めたことを変更するのは大へんな手間がかかると思うが、住民の迷惑も亦よく考えて貰いたいと思う。

 昔、決めた計画は、現在の車の量などからみて道路の幅が狭いし、通り難いところがいくつもある。一方通行の道が少なからずある。廃止しろと言うのではないが、夜中に一台も走っていないのに赤信号で俟たなければならないところもあるので、そういうところは、黄色の信号で点滅するようにするとかも少し、細かく気を使って貰いたいと思う。

 いろいろ思いつきみたいなことを並べてみたが、要は、住宅地帯として、できるだけ残して欲しいのである。出来ない相談だと思わないで、是非そうして欲しい。