27.8.20

8月10日は葉子の誕生日である。車のナンバーなどは皆810とそろえてある。私の車は1234である。私のは大した意味はないが、葉子のは誕生日となっている。
私は、時々、なぜ、何か官僚の中の官僚と言われ、大蔵事務次官になれたのか、自分でもよくわからない時がある。
私は、いろいろな事情もあって、東大法学部での成績も良い事はなかった。大蔵省は、当時、入省者を成績順に発表していた。私が、27人中22番目位だと覚えている。大蔵省が当時高等文官試験(略して高文)の成績よりも、3年間の学校の成績の方を重く見ていたのだ。初めはちょっと変に思ったが、考えてみれば、たった数科目の試験の成績で出来、不出来を決めるよりも、大学のたくさんの科目でどういう成績を取っていたかの方が、優劣の判定が合理的でないか、とも思った。
私は行政課の成績は47,8番(受験者数約3000人)、司法科13番(受験者数約2000人)というところであった。秘書課長の坂田泰樹さんに君は成績が良くないねと言われ、まぁ司法と合わせて一本かと言われたことを今も覚えている。
大蔵省高文組の採用者数は普通毎年20人はなかったと記憶しているが、戦況が厳しい折だから、半分ぐらいは死ぬ可能性があったとし、例年の倍を取ったと言うことであった。
27人のうち、海軍へ10数人、陸軍へ10数人、兵役に服したが、運がよかったのか、採用数の一、二割欠で皆無事に復員してきた。これは大きな見込み違いであって、専売事業に5人ほど分けて行くようになったのもそのせいかと思った。
キャリアの数が多くなれば、当然競争も激しくなる。学校の成績は皆大抵、私よりよかったはずだし、戦地に行かず、早く復職した人もいたし、第一、私は行方不明と名簿に記されていた。
大蔵省には採用期別に名簿ができていたが、採用の成績順であった。陸、海軍の名簿は死ぬまで順番(陸士陸大卒業時)がくっついてまわると言われていたが、大蔵省はそれほどでないにしても、六年間も休職し、しかも仲間の一番最後に復員してきた私がいわば出世に良い事はないと固く思っていた。帰還のシベリア鉄道23日間毎日毎日考えていたのはそのことで、人の尻について歩いて行くより、いっそ司法の資格を生かして弁護士に登録して働こうと日を追って固く思っていた。
私は、父にも、母にも自分の進路について相談した事はたったの一ぺんもなかった。弁護士になろう、と言う決心もそうであった。
しかし、復員して二日目に大蔵省に行って、官房長(高野一之)や秘書課長(大月高)に挨拶に出向いたところ、よく帰ってきた。残っていた皆と同じ待遇にするから、明日からでも来たまえと言われた。
私が調べると、戦前は、高文の司法試験を通れば、特に研修をしなくても弁護士としての登録ができたのに、戦後制度が変わって、司法研修所で2カ年も研修をしなければならないことになっていた。一応公務員として給与も支給されるが、およそ低いものであった。
私は結婚する約束をしていた女性がいたから、そんな給与では家庭を持てない心配もあって、長い間考えて出した結論をたった一晩でひっくり返して大蔵省に復帰する気になったのである。
秘書課長が、君の仲間はもう地方局の部長になっているか、もうそこを終えたものもいるので、どこか、部長が空かないか、と考えていると親切な言葉であった。
私は、遅かったついでに、税務署長がやってみたいと言った。ちょうどそれから一週間目に京都の下京税務署長のポストが空くから行くかと言われた。他のところならともかく、京都なら行ってみたいと思ったので、ありがとうございますと即答した。
前任者は、大蔵省の期で言うと二期上の小島し、私に異論はなかった。当時、戦後まもなくで、人事の序列が乱れていた。小島氏の前は私の一期下の前川氏、その前は前川の二期上の吉国二郎氏といった様な異例の順になっていた。私は、そんなことは、余り気にならなかった。前所長は午前中はあまり出勤していなかったと聞いていたので、それは改めることにした。許嫁者との結婚式は署長の発令を受けてから、さあ、2,3カ月後に親戚の夫妻の仲人でささやかに挙げることにした。
義父は国鉄の直任技師であった。式後、東京駅迄送ってきたが、三等車の座席に座っている花嫁を眺めて、せめて二等車に乗せたかったと歎いていた。当時、その位われわれは日頃の経費を切り詰めていたのではないか、と思う。それにしても気の毒に思ったので、東京に戻る時は、ニ等車にした。駅頭、まことに大ぜいの見送りで秘書が小盆を名刺置きにして、あちこちホームを歩き回っていたことを今も覚えている。
私は、特に同期の連中とポストを争うような気持ちはなかったし、自分には他の幾人かのように財界のバックや官界の有力者との縁もなかったので、ただ、与えられた仕事を精一杯人に後ろ指を指されないように真面目にやろうと思っていた。
とくに引き立ててくれるような先輩もいなかったようだった。強いて言えば、神中の先輩で、入省する時に主税局長をしており、のちに事務次官になった松隈さんが、中学の先輩として鎮座していたに過ぎなかった。
ただ、口にはしなかったが、入省時配属を決める時に、自分が局長をしている主税局の事務官に任命してくれたのは、気を使ってくれたのかな。と思った。
もっとも採用試験で各局の局長が居並ぶ中で、酒を飲むかと質問あったので、何とはなしに相手と同じ位飲みますと返したら、阪田秘書課長かが、松隈さんの後輩だからな、との発言で皆ドット笑ったところが何気ない私についての紹介であったかと思った。松隈さんは事実酒ではならしていたのかも知れなかった。
ここで一言余計なことをかくと、松隈、相沢、吉瀬と三人も大蔵次官を送り出した私の出身である神中は一寸評価されてもよかったのかも知れない。
私が次官になれた一番大きな原因は主計局に20数年もいたことだと思うし、主計局長だったから次官になれたのではないか、と思う。近藤君とのポスト争いなど、とくに意識したこともなかったし、私は池田さんのような極めて有力な大蔵大臣の秘書官を勤めたこともない。特に政治的な色がついていなかったのも、幸いしたのかもしれなかった。
前にも書いたが、ただ仕事の面だけは誰からも文句が言われないように、ただただ一生懸命働いたと思う。もっとも、今から考えると、その分、家のことは何もやらなかったという後悔が残っている。もっと、子供と遊んだりしてやればよかったと思うことがある。然し、なかなか、両立し難いものであって、家の者には何かと苦労をかけたのではないか、と思っている。
しかし、思い出してみれば、勤務した職場で何かしら、改善、改良すべきものを残して来たという自負は持っている。ことに予算編成を合理的にできるように、特に機器の導入などの面では、各所で何かしらの実績を残してきたつもりである。