27・1・8

 ポッダム宣言の署名国でありながら、その規定に反してスターリン大統領の指令で満洲・北朝鮮・樺太・千島の日本軍将兵六〇万人が極寒のシベリアの地に運ばれ、劣悪な給与の下で強制労働に服せしめられ、ためにその一割六万人が死亡するという悲劇の結末は戦後七〇年にして未だついていない。

 ソ連は、日露戦争の報復をすると号して、昭和二十年八月十五日の終戦になってからその将兵を前記各地侵入させ、日本軍のあらゆる物資のみかは、現地の住民に必要不可欠の発電所の機械までも取りはずしてソ連領内に運び込むという暴挙を敢て強行したのである。

 われわれ抑留者団体は平成三年のゴルバチョフ大統領来日の際に日ソ間に締結した協定の誠実な履行を求め、毎年秋にモスコウを訪ねて、関係官庁の責任者にその履行を要求し続けて今日に到っている。しかし、広大な国土にわたって展開していた抑留地のこととて、われわれ団体の努力もあって、名簿の提出などである程度の成果を収めたとは言え、わが方の要求に充分に応えているとは程遠い状態である。

 戦後既に七十年、われわれは皆年老いて日々鬼籍に入る人が増えるばかりである。二十人や三十人が拉致されたというような問題とは比較にならない重要な要処理事項だと思っている。

 北方四島にしても、戦争が終結してからのソヴィエト軍の侵入である。それを言われたくないのか、ロシアは終戦の日は九月三日、ミズリー号での文書のサインの日と称している。

 四島返還の要求と並んでソ連抑留者への補償要求は早急に処理されるべき問題であることを改めて認識して問題の妥結に向けて政府も努力を惜しまぬようにして貰いたい。

 最近になってソ連抑留問題は一頃よりは頻繁に採り上げられるようになったたが、活字になるだけで済まされては、問題の解決にはならない。