27・8
あれは、昭和十九年の夏であった。私は、見習士官からやっと主計少尉に任官した頃である。
中支の湖南省、粤漢線に一駅を作っている咸寧という古い町に歩兵第十二旅団司令部が置かれていた。私は、その司令部の経理部に属する経理勤務班長として、対日還送物資その他物資の収買業務を担当していた。価格の交渉、輸送方法その他、細々したことまで、数人の部下と処理しなければならなかった。戦局は、フィリッピンのマニラの陷落がその年の一月、アイシャル・リターンのマックアーサー軍にやられ、毎日毎日、桂林、柳洲など各地の飛行場から米軍のB29、B26、P51、P61、P38などの飛行機にいたぶられている頃であった。
わが軍も、二十年の初めまでは、第五航空軍の司令部が漢口に置かれていたので、それでもなけなしの戦闘機が攻撃に飛び上ってたりしていたが、その航空軍司令部も朝鮮の平壌に移駐されてからは、もう米軍の天下であった。以前は、それでも夜襲が主であったが、それからは、もう堂々と晝日中マフラーを首にまいた飛行士の小憎らしい顔が見える程近々と爆弾を投下し、機銃を打ちまくって飛んでいた。
われわれの持つ軽機関銃の弾丸は敵機に当っても、知らん顔も同然であったので、われわれ、前からいる部隊は、米機が来ると聞いて、その辺のタコ壺にもぐって、米機が去るのを俟つしかなかった。くやしいけれど、それが一番堅い防備体制であった。
八月も半頃か、私は兵隊一ヶ分隊を連れて馬をぶっ飛ばして収買の仕事に出かけていた。のろのろ歩いていると、山の上には中国兵の監視哨が銃を構えていたので、へなちょこのタマなどにやられてたまるか、と思っていた。
敵機が去って二時間ほどして旅団司令部に戻ったら、何と、私と一緒に東京の陸軍経理学校幹部候補生隊で汗をしぼられていた仲間が一人が、私がこの町にいると聞いて訪ねて来てくれた。彼は他の部隊の主計をしていたが、たまたま前線へ行く途中で、私のことを聞いて寄ってくれたのであった。
ところが、天、われに組せず、彼が部下と車で走っているところをP51に撃たれたので、車から軽機で応射したが、彼は腹に爆片を受けて亡くなって了った。
われわれだったら、当っても撃墜できそうもない米機には手を出さないが、そこが、内地から送られて来たばかりの部隊だから、そんことは思わず撃ちまくって、却って、米軍に一〇〇㎏爆弾を投下されてしまった。
部下の一人もやられたが、彼は自分は腹をやられたので、とてもダメだから、部下を先に治療して貰ってくれ、と言いつつ亡くなったという。
私がいたらちょっとでも顔を見て、と思って寄ったのが、この始末。私は、話を聞いて、まだ暮れなずんでいる空を迎いで、済まんことをしたと、心から詫びた。私がいても、どうともならなかったかも知れないが、せめて、射撃を止めることができたのにな、と思った。
戦場はこういうことの連続と言えたかも知れない。
ソ連抑留から解放されて自宅でその後発行された経理学校の名簿を見たら、亡くなった彼の名を見つけた。備考に咸寧で戦死と印刷されていた。たった一行。私は、その頃のことを思い出して、戦争の非情さを改めて知る思いであった。
あの、元気のいい、KOのラグビー選手の戦友も亡くなった。漢口の司令部へ訪ねてくれたので、一緒にまずい飯を食ったのが、別れになった。
もう将校の軍服は目立って要らないから売ってくれと言われて、通過部隊だった友人の軍服をゼニに替えて一緒に合成酒を飲んだこともあった。
南京のホテルの階段を上がっていると、相沢と呼ぶ男がいる。将校の軍服をきちんと身につけた、内地から送られたばかりの高校の同級生であったが、彼も亡くなった。
あゝ、諸行無常、会者常離は正に戦地であった。