27・7・18
漱石に「夢十夜」という小品があって、読んだことはあるが、よく覚えていない。あゝいうものを書いたら、彼が一番ふさわしいのではなかろうか。
この頃、私は夢を見ない。以前は寝つくまでに少々時間がかかったりして、その間に夢をよく見たこともある。
ソ連に抑留三年。帰国してからはよく夢を見た。ロクな夢ではない。切角舞鶴に上陸してわが家に落着いたのに、又、ソ連に呼び返される夢を何回も見た。お前は何かしたのか、と母親に尋ねられても答える言葉もなく、身の回りの支度をけんつくを言いながらせかせた夢も見た。
ソ連に抑留される前には中支那にいた。田舎の城壁のある町の旅団司令部に勤務していたこともある。米軍の飛行機が一日何回も空襲をすることがあった。あのタマは一三ミリだったか、城壁は通らないとしても、貨車の鉄板などはブスブス穴だらけにしてくれる。あのタマを背中に受けた夢を見たことがある。両手で胸の傷を抑えてタマが入っているか、どうか、確かめたところで夢が覚めたことが何回もある。
丁度、私が連れていた経理の下士官は、頭に爆弾の被片を受けて半狂乱の状態になっていた。今でも血に濡れた彼の半顔を思い出す。辛い運がよく、助かって、南京の経理学校に入校したが、今はどうしているんだろうか。年も年、亡くなっているかも知れない。
とれあれ、空襲の恐さは身体のどこかに滲みついていて、何回夢を見たろうか。
夜中に、物すごい叫び声を挙げて、家人にあなたはよっぽど悪いことをして来たのぢゃないか、と思ったと言われたことがある。
敵のタマに打たれた夢を見たなど、いう状況を説明してもわかってくれるものではない。
辛い、戦後六十年も経つ。タマにあたる痛さは思い出さないようになったが、ソ連に連れ戻される夢は十年前も見た。
そして、目覚めて、生きていることを幸せに思う。