27・6・21

 水上勉は一九一九(大正八年)年三月八日福井県の生まれである。私は、同年七月四日大分県の生れである。彼にとって福井は生国らしい生国であって、沢山故郷のことを書いているし、「若狭の文士」と呼ばれもしていた。

 私のとっての大分は、父が東京高等師範出であったので、当時のこととて本省の命令一本で大分県の宇佐中学校に勤務になった。そこで私が生まれたのである。元来、私の家は鎌倉時代から今の横浜市港北区の高田町に住みついていたのである。今から約八百年も前であろうか。

 水上さんと私は初めて何処で出合ったのだろうか、考えても思い出せないが、よく顔を合わせるようになったのは、西銀座のチンチラというバーであった。-

 ジュンのマダムが大阪の北から上京して最初に開いた店であった。日活ホテルの電通通りを挟んで反対側、ビル二階の店で若い美人も多く、水上さんは常連だったかも知れない。私は、近畿財務局長として一年大阪に勤務していた間にジュンに行くことが有ったので、マダムも心やすかった。ジュンのマダムのスポンサーが私の親友の兄貴だった関係で、ラモールなどとともによく知っていた。

 大阪勤務は一年。東京に戻って水上さんをママが紹介してくれたのだと思う。

 彼は美男三文士の一人と言われたというが、なかなかよくもてていたようであった。話をしてみると、私と同い年、彼は数ヶ月上だったが、ガンで最初の妻を亡くした×一の私と同じ×一、二人の子供。いろいろ似ている境遇もあって、親しく口をきくようになった。

 チンチラのマダムは間もなく某銀行から六千万円を借りて、バージュンと割烹塚本を始めた。融資でお手伝いすることもあって、ジュンには暇があれば、のぞくようになった。水上さんもジュンの客となっていた。ジュンには安倍晋太郎などの政治家、小佐野など名の知れた連中がよく姿を現わしていた。

 水上さんとは同じ成城で、さあ三〇〇メートルとは家が離れていなかった。おち合って、水上さんの家で三、四時まで飲んでいたこともある。彼も酒は強く、そして何よりも話が面白かった。

 私も、彼の書いたものは「雁の寺」、「五番町夕霧楼」などあらかた読んでいたし、兵隊で同じく馬部隊にいたし、話の種は絶えることなく盃を交わしていた。

 私が次官となって、もうじき官途を辞することが明らかになった頃、ある晩、彼の日く、「相沢さん、あなたはいずれ政界に出て社会のために働こうと考えているでしょうが、もうそんなことは考えない方がいいよ。私に一人智恵の遅れている子がいるかいないか、決して直る見込みはない。あの状態はけだものみたいなもので、直るものではない。自分も何とか救う方法を考えたり、相談してみたが、結局網の中に入れておくよりしょうがない。あなたもそういう人達を救うなどいうことは考えないで、私と一緒にゴルフでもやりましょう。

 新軽(ゴルフ場)のメンバーになるには軽井沢に家を持っていなければならない。私も軽井沢に一軒持っているが、これを世話してくれた大工もよく知っているから、彼に話して土地を探して貰ったらいい。私からも言っておきましょう。」

 水上さんの話に全面的に同意したわけではないが、新軽のメンバーになるたために、彼の話してくれた大工さんに頼んで先ず土地を買うことにした。

 新軽に隣接して南ヶ丘の近くに千坪余の厚らな維木林が売りに出されていたので、丁度軽井沢に社員寮を造る計画を持っていた私の友人の会社と一緒でそれを買うことにした。

 それまでは良かったが、その土地の面積は登記面積が実測の五分の一、実測に合わせて公簿を訂正して貰うのに、十年以上もかかることになった。

 水上さんの別荘には神楽坂の芸子さんあたりが何人も揃って遊びに来る。一緒になることもあったが、とにかく、若い時苦労したと小説に載っている分をとり戻すように、もてる人であった。

 相沢さん。女の人は怖いものです、いつか、ジュンの子が遊びに来て、としきりに言うものだから、ある日、ぶらっと行ったら、マンションの彼女の部屋に先に入って行く人影を見たので、黙って引き揚げて来た。何のつもりだったのでしょうね。怖いものです」。何が本当に怖かったのか、これだけではわからない。

 かと思うと、「相沢さん。昔から寝れない時には羊を一ぴき、二ひき、三びき、と数えると寝れるようになると言うでしょう。私は、羊ではなく、女性の数を一人、二人、三人と数えることにしている、そうすると眠られる」とのたまうので、一体何人数えられるの?と尋ねたら、七十六人とか七人と答えていた。羨ましいですね、と言ってみたが、本当かしら、と思った。

 水上さんが一頃森光子さんにぞっこんだった頃があった。実名など書くべきではないかもしれないが、既に週刊誌がバラしていることでもあるし、私自身見たことでもあるので書かして貰う。

 あれは、光子さんが大阪のコマ劇場に私の家内と一緒に共演している時であった。私は家内の楽屋をのぞいたのであるが、隣りが光さんの部屋。コマの楽屋は狭い。水上さんをは、しきりと光ちゃんを誘っていた。「光ちゃん。おいしいとこ見つけたんだ。一緒に行こう」というようなことを繰返し言う。光子さんはつんと出演前の顔の手入れ。返事もしない。

 水上さんは大分前から楽屋にいるのだろうが、お茶も出ていない。家内の付き人が気の毒に思って、お茶を出した。「光ちゃん」と水上さんの誘いが又始まったら、光子さん「そんなにおいしいなら、私は先約で行けないけど、うちの子をつれていって下さい」といい返す。お白粉を叩く手もとまらない。

 やがて、舞台は終った。光ちゃんはまだ座っている水上さんに「ぢゃ、二人で先生に連れていって貰いなさい。とてもおいしいとこだろうから」と一言。

 水上さん、今更、嫌だとは言いかねたのか、仕方なし二人を連れて楽屋口から出て、タクシーを拾おうとした。

 三人で立っている道路の前を迎えの外車に乗った森さんがサーッと走って行った。そんな光景を見せられたのが、大阪一夜である。

 ものの本によると、水上さんはかなり森さんに打ち込んでいたらしい。といって実体は知らないのである。

 男女の間はそんなもんだと思う。森さんも恋多き女だったのか、と思うが、水上さんももてはしたろうけど、恋多き男であったのかも知れない。

 ある時、私は京都にいた。二月三日であったと思う。吉田神社に日本中の神様

が集まる日だということで出かけたのである。とんどさんで、山の様に積み上げ

た神事関係の紙などに一せいに火がつけられると、天を焦がすような高い炎が

が舞い上がる牡大な祭となる。

 京の二月の夜は氷つくような寒さ。身体の半身を焼かれたような思いで山を

下って、さて暖かいところを、と探して、ある有名なバーの一軒である、そのバ

―の扉をあけると、パッと会ったりが、水上さんであった。河岸を変えたのかな、

と思ったが、そんなことは言わずにキューッと一杯ブランデーで乾杯をした。

 京都でも居を構えていると聞いていたが、本当なんだな、と思った。

 米子の「本の学校」の開所式のあと、お会いしたこともある。変わらない人

であった。

 彼から薦められた軽井沢に家を建てないうちに、水上さんは長野の方に引越

して行ったと聞いた。何でも、今度は陶芸で自分やら誰やらの骨壺を焼くために

窯を作るという話であった。

 一度、見に行く、と言っておいたが、折りがなくて、訪ねたのは、彼が亡くな

ったと聞いて直ぐ、何日かあとであった。

 彼の居間もベッドも生きている時のまゝにしてあった。黒ぶちの眼鏡もその

まゝ机の上に置かれていた。

 諸行無常と言うものの、とにかく、同年だっただけに、思いが遺る気がする。

 あのあとはどうなっているのだろうか。

 最後は遥か若狭の海を思って亡くなったのだろうか。