27・6・27

 水上勉(ミズガミツトム)の、言えば窪島誠一郎(水上勉の実子)の数々の思い出話である。

 水上勉は、私と同じ東京は成城の住人で、家は数百メートルしか離れていないし、大正八年同年の生まれ。彼は三月、私は七月の生まれで、同じ年であった。

 西銀座八丁目にあったチンチラというバーで知り合ったが、言うまでもなく彼は夙に有名な小説家、私は文学好きとあって、次第に親しくつき合うようになった。

 彼の一生好んでいた京都の町に、私も税務署長として勤務をしていたし、彼の越前竹人形の主役を私の家内がしたし、彼の軽井沢の別荘の近くに彼の薦めで土地を買ったし、成城の家で飲みあかしたこともあった。彼の女友達の何人かも知っていた。

 私は鳥取から選挙に出るようになって、暫く会う折も少なくなって来たが、パッタリ京都の夜に会って、彼の行きつけのバーに行ったり、又、偶然、米子の本やの開店祝いで顔を合わせたり、何かと離れ難い懐かしさを持っていた。

 彼が軽井沢南ヶ丘から引っ越して骨壺を焼いている話は聞いていたし、心臓の三分の二がダメになっているなどとは直接聞いていたが、ウソかと思っていたら、本当に平成十六年九月八日亡くなられた。

 そのことを軽井沢で知った私は、早速北御牧村の勘六山の山荘に御焼香にかけつけた。亡くなって一週間かそこら経っていただろうか。

 書斎、ベッド、本、机の上には万年筆にメガネ、そこに彼が座っているかのようなたたずまい、あゝもう会えないんだな、と本当に淋しく思った。

 あなたも政治家なんかにならないで、気がむいたら一緒にゴルフをやれるように、それには軽井沢に家を持っていなければいけないから、と言って親切に不動産屋を世話してくれたのはいいが、登記のことで大苦労をしたことなどを思いだしたりした、ともかく、私にはやさしい兄貴分みたいな人でした。

 その彼と昔々、彼女との間に生れたのが「窪島誠一郎」。ズバリと記したところもある父の思い出の記、を読み終えた。蛙の子は蛙、なかなかうまいとの読後感と記しておく。