今年で九六才、年男を八回を迎え、できるだけ過去を振り返らないことをモットーとしている自分であるが、ふり返らざるをえない気もするので、お許しいただきたい。

私が幼稚園に通っていた大正十三年の頃、愛媛県大洲の町には駅馬車が走っていた。嘘だと思われる方がいらっしゃるかもしれないが、本当である。毎晩、陽が暮れるとあちこちにガス灯の明りがつく。その頃になると、御者の吹くラッパの音が街を流れてくる。馬の蹄のポカポカと言う音とともに、両脇に灯りを吊った馬車がカタコトと走ってくる。時々ポーというラッパの音、懐かしい、思い出の絵の一面である。

あの頃関東大震災があった。江戸の町も大きく様変わりをした。それから、二十年余、大東亜戦争は東京の街を一新した。ひどい戦災であった。思い出したくもない。私はソ連に抑留されていた。

それから七十年。数の上では節目の年だが、はてさて、世の中はどう変わったか、どう変わって行くか。

科学の進歩は、予想もつかない。少子化現象はやがて人口の大幅減となって行く。世界の人口の変化もある。百数十ヶ国に及ぶという国はどうなって行くか。その結末を見たくとも見れない年のわれわれは、何も心配しても始まらないが、子孫のことを思えば、気にせざるをえない。

夜、床につくと、あれこれ思うのである。

あれは、大正十三年の秋頃であったと思う。私の五才の年である。一家は大洲の町を出て、横浜へ引っ越すことになった。父が大洲中学校の英語の教師から横浜の小学校(根岸尋常高等小学校)長へ転任になったからである。父にとっては懐かしい故郷へ帰ることになるので、楽しい旅になったのであろう。

私は、長浜の港を船で出て、途中今治で泊ったこと、瀬戸内海を走って神戸で上陸、大阪を経て、奈良へ行ったことを覚えている。

記憶というのは、そういうものかと思うが、今治の港のことは覚えているが、他のところはあいまいである。

奈良にいって公園で鹿にせんべいをやったことは覚えている。それで一家全員の写真を撮って貰ったことと、レンズのシャッターを切る瞬間、右手の指を拡げたことをどうしてかハッキリと記憶しているのである。

その時の写真も残っていて見た覚えがあるが、確かに右手の指を拡げていた。ひょっとしたら後で写真を見た記憶からかもしれないが。

記憶は繋っていないで、切れ切れなのは、そういったものかもしれない。汽車も寝台車みたいなものではなく、三等車のゴソゴソしたもので、進行中何べんも床に落ちたことを覚えている。

関東大震災の後の横浜は何だか焼野原から立ち上がりかけている状態であったと思う。

父は根岸小学校という明治新学制の際に建てられた古い小学校の校長となった。無論古い木造の二階建ての校舎で、何本も木でつっかえ棒がしてあった、後に至るまで、校舎とはつっかえ棒のあるものだと、覚え込んでいた。

住んでいた家は、一応門もあり、板塀で囲まれた家であって、庭には杉の木が何本か生えていた。玄関を入って左に四畳半、玄関に三畳、向って右手に六畳、八畳に勝手に風呂場という、至ってささやかな家であった。

まわりは、下町で、遊び友達も下町の悪童たち。遊び盛りの子供のする悪いことは大抵覚えたし、段々がき大将になって行った。喧嘩は当り前、泣かせたこともあるが、泣かされたことは余り覚えがないところを見ると、まァまァだったのかもしれない。