27・4・18
 私は、現在、朝、毎、読、日経、産経、東京に地元の日本海の七紙をとっている。 
 朝起きて洗面のあと朝食であるが、九時半の出発までに時間があれば、パッ、パッと大見だしだけでも眺めることにしている。
 しかし、その前に必ず見るのは死亡欄である。死亡欄があちこちする新聞もあるが、大抵、最後に近いページの下の方である。
 日によって何名もの名前が上っていることがある。知っている人の名が時々ある。弔電を打ったり、近しかった人なればお通夜や告別式に行く。
 しかし、年をとってくると、亡くなる人の名前は知らない人が増えてくるし、しかも知っている名前も自分よりも若い人が多くなって来て、淋しい思いをすることが多い。
 あゝ、あの人はまだ生きていたのか、と思うこともある。
 この間は、ある人の白寿の祝の会の案内があった。親しくしていた人なので、会に出席する返事を出したら、その日の前に今度は亡くなったと死亡欄に名前が出て、軈て告別式の案内が来た、お祝いの会が反対になったのである。
 会者定離の世の中とは申せ、何ともはかない思いがする。
 芭蕉の「送られつ送りつ果ては木曽の秋」の一句をふと思い出す。