27・4・14
昭和三十年夏、私は、二ヶ月に及ぶ欧米の旅行の終わりにギリシャのアテネを訪ねた。学生の頃ギリシャ哲学に興味を持ってプラトンの著作に打ち込んでいた私は、アクロポリスの丘に登り、牡大なパルテノン神殿を眺めた時は感激で胸が震えるようであった。
アテネにはその当時、藤公使と私の二人しか日本人はいないとのことであった。
たまたま藤公使は私の高校の先輩であった。別に用事もない、といってイギリス人のタイピストを歸して一室の公使館の扉を閉めた藤公使と私は、車をかつてマラトンに走った。
折から真夏、エーゲ海は真青の色にそまっていた。海水浴場で冷たいビールを飲んで、又、車を走らせた。ここをあの走者がアテネに戦勝を知らすため駆けて駆け抜いたのだよと教えられながら、紺青の海を眺めていた。
エジプトへ飛ぼうと思っていたら、スエズ運河は封鎖、エジプトは軍の戒厳令下にあると言う。
たまたま一緒になった栗山元大使は予定を変更してカイロへは行かないと言う。私は、減多にないチャンスを逃してはいけないと、カイロへ飛ぶ飛行機を俟っことにした。飛行場の小さなバァーで藤さんとあのギリシャのやにっぽいワインを飲みながら夜明しをして了った。忘れられない思い出である。
オリンピックの競技の花はマラソンである。オリンピックと聞くと、マラトンを思い出す。と同時に、あの夕陽の中に沈んで行くパルテノンの美しい姿を思い浮かべるのである。ギリシャ経済の窮状をニュースで耳にするたびに何故西洋文明の発生の地ギリシャがそういうことになるのか、なと不思議な気がしてならない。