27・3・20

 昭和二十五年、私が大蔵省主計局の特別機関(国会、最高裁判所、検査院及び人事院)の主査として勤務していた頃、裁判所の大きな問題である裁判記録のとり方についていろいろ議論が重ねられていた。

 一つは速記である。最高裁は速記官養成所と書記官養成所とを持っていた。裁判に記録、とくに法廷のそれを重要である。通常の速記のほかにいわば略字を使うステノグラフも使っていたが、しゃべったことをそのまゝ活字に叩き出せる機械があったらよい、と研究を始めていた。私も大いに関心をもってその開発のための予算も計上した。ソニーのテープ・レコーダーについては別途述べるが、これの購入費も思い切って計上した。

 ディクタフォンの開発は簡単ではない。模型を使って口蓋の形の発声に伴う変化を克明に表現させ、それを電流の変化に結びつけるものである。しかし、人の言語には発声の不明瞭に始まり、標準的な言葉と異なる方言、なまり、イントネーションの差など様々な異分子が含まれているので、標準化が進まないと発声を文字に転換するのに困難さが増すことは明らかである。

 この困難さをどこまで克服できるかが山であるが簡単なものではない。その議論をしていたのは昭和二十五年度予算であったから、おおむね六十年も昔である。

 その後の経緯は充分承知していないし、又、最高裁判所以外でも当然この研究、実験の続けられていると思ったが、近頃聞いたところでは、かなり正確に近いものが出来つつあるが、まだとても一〇〇%に近いものは出来ていない、とのことであった。一〇〇%のものは、とても不可能と思うが、コンピューター技術をもっと高めることによって、より精巧な機械が出来るのではなかろうか、と素人考えて持っている。

 ただ、どんなに精巧なディクタフォンができても、完全にノーチェックで行けるものか疑問に思っている。でき上った段階で誰かしかるべき人間が念のためにも一度聴いてみる必要があるのではないかと思う。これは素人の余計な心配であろうか。

 これとは、ちょっと違うが、最近人が運転しないで自走する自動車の話をよく聞く。それは理論的には出来ないわけがないと思うが、ある程度以上のスピードを出した場合も実際に青赤信号もあり、勝手に走る車の列のなかで全くうまくいくのだろうか、と心配をしているが、そんなことは全く気にする心配がないくらいの自動運転の装備ができるものだろうか、なお心配をしている。

 もっとも、人がヴォイスを完全に復元されていれば、文字を読む必要性が無くなってくるのかも知れない。