26・10・6

 終戦時北朝鮮にいたばかりにソ連邦内に抑留されて三年、昭和二十三年の八月帰国した頃、新宿あたりに民謡酒場が盛んであった。

 ルパーシカなどを着込んだ若いウェイター、と言うよりお兄さん風の若者がテーブルの間を縫ってサーヴィスをしてくれる酒場はむせるタバコの煙についてロシアの民謡が天井に舞い上っていた。

 カチューシャ、ともしび、ステンカ、ラージン、ズドラーストヴィッチ・モスコウ(モスコウ今日は)、トリー・タンキスタ、ムロマンスキーの小路にて、リァビーナなどロシアの田舎でもしきりに唱われていた歌であった。

 五月の末頃になるとボルガ河の氷も解けて春がやってくる。草や花や木々の芽もほんとに一斉に咲く。トルストイの復活にその明るい春がやって来る景色がすばらしいタッチで描かれていたが、半年以上も長く続く冬のあとに来る春は短く、夏が待ち受けていた。

 その春が来て、氷をとかして流れる春の水の音とともに明けた窓から乙女たちの歌声が聞えてくる。二人いれば二重唱、三人いれば三重唱である。

 私達もやっと慣れて来たロシア語で歌を唄うのが乏しい楽しみの一つであった。

 ロシアの兵隊が又歌声は素晴らしい。二重唱、三重唱で兵隊が軍歌を唄うなんて、日本では考えられない。声がそろってうまいものである。

 新宿の酒場で繰り返し唄われるロシア民謡は懐しいと同時に何だか聞くと腹がたってくるようであった。嫌いであった。抑留の辛い経験を思い出して、罪なくして罰せられた思いで腹が立ってくるのである、複雑な気持ちであった。

 全抑協の会長として、ロシア政府の人たちに交渉するためモスコウを訪れること二十ぺんにも及ぶが、その思いは変らない気がする。

 そう言いながら少ないロシア民謡のCDを又一枚買ってきた。