26・10・4

 昭和二十三年(一九四八年)一一月一二日極東国際軍事裁判(東京裁判)で東条英機元首相ら七人に絞首刑が言い渡された。

 ウェップ裁判長が次々に判決文を読み上げて行く声をラジオで聞いたのを今でもハッキリと思い出すことができる。

 私は、昭和二十年八月十五日終戦後、満州、北朝鮮、樺太、千島に侵入したソ連軍によってポツダム宣言に違反してソ連領土内に送り込まれて二年有余、二十三年の八月十四日に舞鶴に上陸し、焼けた家の代替家屋で家族と四年ぶりに一緒に暮すようになって三ケ月は経っていなかった。

 この判決を聞いたのは、当時大蔵省の虎ノ門の庁舎は米軍のPXに使用されていたため臨時に移っていた四谷小学校の一室(小使室ではなかったか)で絞首刑(デス・バイ・ハング)に処すと、ハッキリ裁判長の声が宣告していた。沢山の人が聞いていたが肅として声はなかった。

 われわれ学生は戦争とくに対米開戦には反対であった。私は主計将校として武漢地区で対日還送物資の調達に汗を流していた。ABCDの包囲網に対して宣戦は止むをえなかったとしても、あのようにとめどなく戦線を拡大した軍部主導の政府に対して批判的であったが、然し始められた戦いは勝たなければ何もならないとして、一生懸命働いたことは事実である。

 東京裁判の十一人の判事団は平和に対する罪の裁判管轄権問題などで内部対立を生じ、全員一致の判決を出せないどころか、四人の少数派の中には全被告無罪の意見書を出したインドのパル判事がいて異彩を放っていた。

 彼は、東京裁判は事後法による不当な裁判であって、戦勝国は「通例の戦争犯罪」の管轄権を有するにとどまり、「平和に対する罪」という新しい法律を制定する権限を有しないと結論づけていた。

 絞首刑を宣せられた七人のうちただ一人の文官首相であった広田弘毅は私の出身校でもある旧制一高の英法科を明治三四年卒業した先輩で、東大卒業後外務省に入り、オランダ ソヴィエトの大使、外務大臣を経て総理大臣となった人であった。彼は巣鴨に収客中も無罪を主張して争うこともなく、從容として死についたと聞いている。なお広田の場合、オランダのレーリンク判事も無罪を主張したので、判事一一人のうち六人の支持で死刑が決ったと推測されている。

 東京裁判が「勝者の裁き」であることは否めなかった、と思っている。