26・10・4

 中村真一郎の独り語りのような作品である。「私」は「画家」となっているが、どうも中村が自分のことをいろいろモデファイしながら女性を語り、愛を語り、芸術を語り、人生を語っているのではないか、と思われる。

 小説は作品そのものと読めばいいので、それを書いた人といろいろ関連ずけて観察をする必要はない。画や彫刻もそうだ、という意見も聞いたことがあるし、それでいいのだと私も思っているが、中村の場合もそうであるが、本人を知っているので、つい作品と結びつけて考える癖が出てしまう。

 われわれ固い仕事をして、やかましい環境のもとに育、て来た人間にとっては、作家という職業は大へんに行動が自由なような気がする。作家があるが故に発言が、行動が許される、というのはおかしい気もするが、現実はそうだと認めざるをえない。

 はっきり言えば、われわれは羨ましいのである、ことに社会に対する発言がいろいろなことを顧慮しなくても済む点である。

 もっとも、そういう捉われない立場から直言してくれる人もなければならないのであって、とかく人の顔を見ながら、しゃべったことの影響をあれこれ考え、発言に注意しなければならないのは、億劫でもある。その点作家は気楽である。

 やっぱり難しいことの処理にまず必要なのは現状の適確な認識と問題点及びそれに対する解答である。この辺はバイアスが眼にかからないようにして処理しなければならないところである。

 長いこと生きてきて、いろいろな場面にあたっているに拘わらず、処理を誤るのは、どうしても先人生があり、又、人間だから感情が絡んでくるからである。

 「美神の戯れ」を読みながら、中村の在りし日の姿を思い浮べている。私が見ても女性にもてるのはあゝいう男かな、と思えるような姿である。女性がはっておけない男である。口説くより、いつも女性の方で近ずいてくる主人公が登場してくるのは、自画像のようではないか、と思っている。