全抑協の会長としてロシアを訪れるのは今回で十七回目になる。最初は、国会の関係もあって代理者が出かけていたが、私も参加するようになった。東洋学研究所の理事であるKGB(もとゲー・ペー・ウー出身)のキリチェンコなどが主唱して始まった日本相互理解のための日ソシンポジュウムも二十七回と会を重ねた。

 日ソシンポジュウムはソ連邦の崩壊とともに日ロシンポジュムとなったが、当初はソ連邦は学者が主体となっており、開催場所もモスクウと東京とで年二回行われていた。参加者の数も双方十数名とかなり多いこともあったが、次第に縮小してきた。

 ソ連邦は、昭和二十年八月九日日ソ不可侵条約を一方的に破棄し満州、北朝鮮、樺太、千島に侵攻して来たばかりか、ポツダム宣言の署名国でありながら、八月十五日の終戦後、これらの外地に駐屯していた日本軍将兵約六十万人を内地へ還送するどころか、シベリア奥深く輸送し、強制労働に服せしめた。

 栄養失調、T・B、発疹チフフなどのために抑留者の一割が祖国へ歸る夢を断たれて亡くなったのである。

 昭和三十一年鳩山内閣の時に日ソ共同宣言において復交がなった。その第六項において、相互に請求権を放棄することが定められたが、われわれ抑留者はそれを不当として、抑留間の賃金の支払いをロシア側に要求し続けて来ている。

 日ソ共同宣言は、四島の歸属問題についてまことに納得し難い規定となっているが、わが国は平和条約において四島一括返還を求めているのであるから、その第六項も是非修正し、われわれの要求を実現することを強く求めている。

 四囲の状況なかなか困難であるが、「念ずれば花開く」という古語もあることを忘れずに努力を続けたい。

 死亡者名簿の提出は、平成三年ゴルバチョフ大統領来日の際日ソ間に締結された協定第一項に基くものであるが、約六万人の死亡者のうち氏名の明らかになった者は約四万人で、約二万人の名簿は提出されていない。

 われわれが軍事中央古文書館で見出した抑留者の個人別ファイルや各ラーゲルの収容者カード(約七〇万枚)、などのコピーを精査し、最近は移動間の部隊の名簿などもしらみつぶしに調査しているが、なお、充分な結果を得られていない。

 五百数十ヶ所に及ぶとされる埋葬地の調査、遺骨の収集も時日の経過とともに困難となって来ている。しかし、収集された遺骨一九、  体の身元もDNA鑑定で確定したものが現在九一五であって、極めて少数に過ぎない。

 今後できるだけ広く資料を渉猟するにしてもあまり期待はできない。

 又、この団体そのものの活動を何時まで、そしてどのような形で続けて行くかについても、この辺でじっくり検討しなければならない、と思っている。

 亡くなった英霊の御魂を祭り、後世広く、長く、抑留の悲劇を記念することはわれわれの責務であると考えている。