朝起きるのは八時と決めている。起きたら直ぐ部屋の窓を開けて朝の空気を三度吸うことにしている。冬の空気は喉に冷いが、五月の頃はすがすがしい、つゆの今頃は雨気を含んで何となく濕っぽい。
冬から眼覚めたように若葉が一日一日と葉先を伸ばして行く。緑の色が透けて見える。細かい葉脈も天気の日にはクッキリと見える。
ソ連の収容所にいた頃は、五月半頃までは冬で、ボルガ河の厚い氷が溶けた頃やっと春になる。春は一せいにやってくる。花も若葉も。若葉は陽を受けて、毎日眼に見えるぐらい伸びてくる。じっと見ている間にも伸びてくるような錯覚が起きるような早さである。
北緯五十五度の収容所には冬から夏が続いて、春はないような短かさであった。
ボルガ河を白い外輪船が黒い程に濃い緑の水を白い波を立てて切りさいて遡ってくる日を待ち焦れていた。
ドイツ、ハンガリー、ルーマニア、チェコ・スロヴァキア、イタリアなどごたごた十余の国の将枝たちと毎日何語ともつかないロシア語で朝の挨拶を繰り返しているうちに短い春が過ぎて一挙に暑い夏になった。枢軸アクシスなんて強固な連帯のように見えたのは、幻に過ぎなかったようだが、収容所の中はたしかに一緒くたんになっていた。しかし、面白いことに、そうゆう状態になってもドイツ人は一段上の存在のように戚張っていた。
ドイツ人はわれわれ日本人に悪い感情はもっていなかった。といって尊敬したようでもない。しかし、枢軸アクシスの仲間であるという意識は持っていた。われわれがモスコウをレニングラードを攻めている時に、なんで東から攻めてくれなかったのか。もし、そうしていれば、今頃は戦勝者としてここで手を握ることが出来たのにと何人もの人から言われた。われわれはロシアに負けたのではない。数が足りなかったのだ。今一度戦争をして、今度はきつと勝ってやる、と言っていた。彼等は勝敗は時の運。負けることがあれば、きっと復讐をしてやる。力盡きて、矢折れたら、白旗を揚げるのも止むをえない、という心境かな、と思う。負けたら、潔く切腹する、というのではなく、捕虜になったら、今度は必ず仕返しをする、という心境である。
得難い、いい経験をしたなどとは決して思っていない。ことにカザンでの独房の四ヶ月は揕えた。二度とあゝいう目には遭いたくはない。
話が横に辶って了った。ともかく、監獄を出て、白い船でボルガ河を遡る時の解放された㐂びは忘れることができない。太陽が何と明るく輝いて見えたことが。周りのロシア人がみんないい人に見えた。みんな親切に見えた。
暗が深ければ深い程光はあかるくみえるのである、と知った。