26・6・15

 昭和二十九年の夏、外国の予算編成制度を勉強して来い、ということで二ヶ月の外国出張を命じられた。当時、私は主計局総務課企画係の主計官であった。

 制度の大要は印刷物で承知していたが、各国でその仕事に当面している、いわば私の仕事仲間のような人から直接に話が聞けて大へん参考になったし、いい経験をした。

 米国の予算局、英、独、仏、ベルギーの大蔵省の予算関係の人は皆親切であった。

 後日、主計局で、予算のシーリング制度とりを入れたり、資料室を作り、予算書の様式を変更したり、ゼロックスや電気計算機を導入したりして、予算編成の効率化を図るようにしたが、外国での見聞がいささか役に立ったことは言うまでもなかった。

 私が、主計局長の時、当時の田中総理から、毎年一万人の小中学校の先生を外国に出張させたらどうか、と言われた時、一も二もなく賛成し、予算を計上した(ただし、毎年一万人は多すぎるので、五千人とした)。

 二週間の朝から晩まで学校を回る、という案をもって来たので、学校は半分で、あとの半分は見物のスケジュールで良いではないか、と言ったら文部の担当官が、そんなことでいいのですか、と心配顔で言うから、外国は学校ばかりではない、外国の姿をこの眼でよくみることが大事ではないか、と答えておいた。

 日教組対策も頭にあったが、少しでも広く世間を見ることが大事と思ったからである。

 日本からの外国留学生が一頃の半分に減っていると聞いて、そんなことでいいのだろうか、と思っている。

 初めて米国に上陸して壯大な高速道路や摩天楼などのビル街を見た時、よくまあ、こんな国を相手として戦争をしたもんだ、と思わざるをえなかった。

 百聞は一見にしかず、と昔から言う。見てどう思うかは別として、先ず見ることの必要性を痛感した。

 外国留学生はその意味で大切である。