26・4・28

 私等が小学生の頃日本での代表的な輸出品は生糸、絹織物であった。生糸は主としてアメリカ向け、婦人の靴下用にもてはやされるのだと教えられていた。

 当時は、日本中どこでも蚕を飼い桑畑があった。

 私の母の里は神奈川県の二宮であったが、蚕はお蚕さんとさんずけで呼ばれ、広い蚕室に夏は氷柱、冬は煉炭火鉢と人間様より厚遇されていた。

 夏休みに出かけると、それこそ猫の手も借りたい程の忙しさ。遊び半分ながら、私等も朝から背負駕籠をしょわされて桑畑で葉をつむのであった。

 糸の値によってはき立ての回数を調整する。多い時は年に四、五回もはき立ていていたのではないか。

 最盛期には蚕室だけでは足りなくて、主屋の部屋にも蚕棚がギッシリ並んでいた。

 蚕が育ち、桑も丸ごと与えるようになると、何万匹の蚕が桑を食べる音は丸で聚雨のようであった。

 生糸は主としてアメリカに輸出されていただけに、田舎の親爺と雖も毎日為替相場を睨んで売る時期を計っていた。後々神奈川農業と言われ、農産物の換金価値を大事に考えるようになったことの萠芽はこのへんにあったのではないか、と思っている。

 ともかく、日本の代表的産業であった蚕糸業の偉大な記念物が富岡製糸場である。

 片倉工業が年間一億円以上の維持費をかけて守り続けて来た結果が、富岡製糸場の世界遺産への登録と報われてきたのであって、甚だ嬉しいことである。

 ただ、広大かつ古い建物などであるため、今後この建物の修理、補強には百億円以上かかるという試算もあるという。これをどうして確保するか、国としても充分配慮して貰いたい。