26・4・27
改築された歌舞伎座は昔の姿を残しているが、新しく綺麗になったし、座席の間隔も以前より少し広くなって、出入りも楽になった。
戦災で焼ける前の歌舞伎座に初めて入ったのは昭和十五年の冬であった。
生れて初めて三階の梅席で一幕八十銭を払って観たのが勧進帳で、幸四郎の弁慶、羽左衛門の富樫、菊五郎の義経という、後で聞くとそれこそ後世に遺るベストメンバーであった。
私の同級生の友人は子供の頃から芝居に馴染んでいる、それこそ並々ならぬ通、三階の天井から場内に響きわたる声をかけるが、その芝居をよく知っていて、どこの間合いでかけるか普段から研究しているという。
その時だったか、芝居を見終って、どこかで食事ということになった。小屋の眼の前にあったのは有名な弁松。雪が降っていたし、濡れていたので、飛び込んで一杯やりながら夕食となった。
女甲さんが裾が濡れしぼった着物や羽織をアイロンで乾かしてくれる親切さについ酒もはずんで了ったが、今でも覚えている。
歌舞伎座、東京劇場、新橋演舞場、明治座、新宿第一劇場と五つある芝居小屋をよく観て歩いた。全寮制の寄宿舎には泊っていたが、教室へは余り出ていなかった。勉強すれば成績が良くなるのは当り前だ、ぐらいに講えて、代返、代出で教室はガラガラであった。
読みたい本を読んで、見たい芝居や映画を見る。あの自由な生活の三年間は二度と帰らない大事な年月であった。