入沢さんはエラブガの収容所にいたことがどうしてわかったかははっきりしないが、米子のエラブガ会で会ったからかも知れない。
この会は、私が米子に来る前からあって、案内があって私が参加した時は二十名近く集ったと思う。
慶応でピッチャーとして神宮でならした成田君も参加していて、私が主唱して開かれた六大学野球リーグ戦の話も出ていた。
入沢さんは日南町で医院を開いていた。本家は日南の山持ちで、以前から古井氏の支持者であって、入沢医師もそちらサイドであったようだが、同倉の私が立候補したというので、私に熱心の支持者となってくれた。
日南町は町長は陸軍の中野学校の卒業生とかで、政治的にはどうもはっきりしなかったし、大体町全体どっちを向いているか、難しかったが、入沢さんはその中にあって終始私の強い支持者となってくれた。
入沢さんは絵が好きで、なかなかいい水彩画を描いていた。それが唯一の趣味でもあった。玄人のような絵ではなく、忠実な素直な絵であった。一〇〇〇枚書きたいと言っていたが、それは果した筈だ。どれか是非もって行ってと言われ、何枚か気に入ったものを貰った。水彩画である。
入沢さんは、いわゆる町医者として、地域のためには随分盡したことだろう、と思う。
あれは、何回目の当選のあとだろうか、かつてのエラブガ仲間に召集をかけて、米子に集った。世話は入沢さんがやった。私も出来るだけのお手伝いをした。宿が丁度混んでいる春過ぎであったので、部屋がとれず、多勢でざこ寝ということに相なったが、それも戦友同志、ソ連でのラーゲル生活を思い出させるようでよかった。
日南に上れば、必ず入沢さんのところでお茶を呼ばれたが、今は、もうそれも叶わない。往時茫々である。ご冥福を祈るや切。