26・2・8
「武漢の日々」というドキュメンタリー風の小説を書いて手元に置いている。いつか出版したいと考えているが、何かまだ足りないような思いがしている。
漢口の街のことなどももっと記しておきたかった。それで、少し思い出して書いてみる。
私は、第三十四軍司令部経理部調弁科の主任将校の一人で、主計少尉であった。軍司令部は、漢口市の西の外れにある旧競馬場の建物を使用していた。私も経理部庶務将校の頃はその建物に入っていた。
経理部のうち調弁科だけは対日還送物資の調達、輸送などの仕事を担当していたので、便宜上街中にいた方がよい、ということで旧イギリス系の銀行(香港カナディアンバンクの漢口支店)の建物を占領していた。三階建ての建物で一階は事務室、二階、三階は将校七人の居室、裏の建物は下士官兵、用人、運転手などの住居となっていた。
この建物はなかなかどっしりとしたつくりで、二、三階にはベランダもついていて、夏の夜などは仕事が終わって風呂で一浴びした後ビールなどを飲むには快適なものであった。
二階の踊り場には少し古いが立派なピアノがおかれていたし、こじんまりした食堂には純銀の食器が並んでいた。ここは、将校食堂として毎日朝、昼に将校全員が集まって食事を共にすると同時に、いろいろな打合せに使っていた。
もっとも、この銀器はいつの間にか減っていってしまった。どうも食事の世話をしていた中国人のボーイ達が少しずつ鼠が餌を曳くように持っていったらしかったが、究明しても白状するものはいないので、そのままとなってしまった。若い将校達で銀器に格別な関心がなかったので、処理はいい加減になってしまった。
銀行の支店だったので、一階には立派な巨大な金庫が造り付けられていた。ダイアルで開ける扉は五十センチもの厚さのあるものであった。
経理部の現金は横浜正金銀行(戦後の東京銀行)が取り扱っていたので、その金庫も用はなかったが、後に第六方面軍(漢口に司令部を置いていた。傘下に第三十四軍、第二十軍、第十一軍があった。)が儲備券回収対策として蒙古方面から阿片を大量輸送してきたことがあり、その収納場所としてこの金庫を利用した。麻袋に詰められた阿片は、何袋も金庫に納められた。甘酸っぱい香りであった。
この調弁科の建物はその後取り壊しもされず健在であった。十数年前、数人の議員仲間と中国へ観光に出かけた際に、方々探してもうだめだと諦めようと思った時に、発見した。
この銀行は中国銀行の漢口支店として、昔使われていた用途に使用されていたが、折悪しく日曜日で中を見ることはできなかった。
この建物の裏にちょっとした庭があって、我々は野球場としてよくプレーを楽しんでいた。科長の中野少佐がいたく野球好きであったため、漢口駐在のいろいろな部隊の将校たちと試合をしたが、狭いグラウンドでちょっと当たりがいいとボールは塀を飛び越してしまうのが難儀であった。
今でも覚えているが、漢口軍連絡部と試合をした時、三宅中尉という、昔神宮で慶應のピッチャーでならした人がいた。とてもじゃないが、まともでは勝てないと思って我々は彼の球にもっぱら当てることを狙い、最も狭くなっていたライトの塀を越すようにした。そこを越せばホームランというルールにしていたのである。
そのグラウンドも米軍の空襲が激しくなるにつれて、野球どころではなくなり、大きな防空壕といくつかのタコ壺の用地となってしまった。