26・1・13

 年をとると一年の経つのがまことに早い。私だけではなくて、みんなそう思うというのだからそうなのだろう。何故か、という質問に、ある人が、例えば八十才の人は一年間が八十分の一しかないから短かく感じるのだろうという。そうかも知れない。十才の子供の一年は十分の一の長さに感じるのに、ということである。

 ともあれ、若い頃から正月は自宅にいることは少なかった。

 寝正月をしたことが殆んどない。50年ほど前は暮は小倉へ行き、ホテルで紅白を見て年越し、元旦は宇佐神宮にお参りし、ホテルに泊って三日に東京に戻るのを例としていた。私は、宇佐生れで、何となく正月のお参りは宇佐神宮と決めていた。

 その後、正月は、成田、明治神宮、氷川神社、赤坂稲荷などあちこちお参りしていたが、正月の準備が面倒なのと、殆んど人が来ないので、又、あちこち温泉地を訪ねることになった。

 沖縄、指宿、川奈、下田などに泊ったが、このところ三年は下田にしている。

 東京の自宅から踊り子号もあるし、いざと言えば車でも行ける。一時地震の心配はあったが、下田は何となく田舎の風情がある。見るところとて大してないが、そうがつがつ見て歩くこともない。冬のゴルフは止めているし、第一魚がうまい。

 本を抱えて行くが、余り読んでもいない。

 ホテルで元旦の午後、餅つき大会があったが、久しぶりに杵の音を聞いた。兵隊の頃を思い出した。人に誘われて、一臼をついたが、二升の餅米を餅にするには全く息が切れた。あれは、溝の口の部隊付の主計将校の頃であった。

 その部隊は東京師団に属し、師団長は栗林忠道中将、部隊の査察があったので、御団長の名前もよく覚えていた。私は、その部隊から昭和十九年の五月北京に転任を命じられたが、六月栗林師団は硫黄島に転出、御承知のように壮絶な最後を遂げた。もう一月早ければ私も硫黄島に部隊と一緒に行ったかも知れない。人の生命はわからないものである。

 そのお孫さんが、今の斉藤総務大臣である。ソ連抑留者の団体の会長をしている私は、昨年暮に斉藤大臣にお会いして、抑留団体への補助金の再交付をお願いしたが、何か、めぐり逢いがあると思っていた。

 二〇二〇年に東京でオリンピックの開催が決まったが、かつてオリンピックの障碍馬術で優勝した男爵西大尉は硫黄島が戦死したと聞いている。戦争は無慈悲なものだ。

話があちこちする。これでやめるが、今から来年の正月はどこに行こうか、など考えている。