25・10・26

 招魂社という名で呼ばれていたことを知っている人も大へん少なくなったと思う。川端康成の短編小説「招魂祭一景」にも出てくるが、祭りの日にはあの神社の境内で曲馬団やらろくろっ首のお花さんやら、いろいろな出しものがあったことを知っている。当時学生で、神社からほど遠くない家の中学生の数学の家庭教師をしていたので、神社は週に二回は立ちどまっておがんでいた。

 学徒動員で経理の将校として中支の戦場に出かけたので、沢山の戦友の死にも逢っている。慬か三〇センチ違っていても、弾丸があたって彼は戦死し、私は助かったこともある。運、不運としか言いようがない。ソ連の抑留から生還して再び東京に勤務するようになったので、靖国神社にお参りをする機会も増えた。

 戦犯が一緒に祝られてあるからなど関係はない。極東軍事裁判による戦犯など全く勝者による一方的な宣告に過ぎない。もし日本が勝っていたら、原爆で無辜の民を二十万人も殺した責任者は、それこそ戦犯として処刑されなければならない。

 お国のために生命を捧げた人の御魂を祭る場所に行くことに外の国の人がごちゃごちゃ文句を言うのは全く余計なことである。

 ならば、われわれもあなた方が国内で行っている愚行について文句を言わせて貰いたい。

 昭和三十年だったか、予算の保主党による大修正の際に、靖国神社法案を出すことが問題となり、検討されたが、とりあえず見送りとなった。その時の文章は主計官であった私が、国会事務局を手伝って書いたのである。

 法案の内容は靖国神社も神社という名称がついているが、実体は宗教的な存在ではないので、宗教法人法の対象とはせず、その埓外の存在と認める内容のものであった。ただ神官は神官の恰好はしても神官にあらず、二拍二礼一拍も形が同じであるに過ぎない、というような点でいささかすっきりしていなかったので、その場で賛同がえられなかったのではないか、と思われる。