25.10.27

上坂冬子から贈られたのは三十年近くも昔であった。川島芳子のことである。村松梢風の「男装の麗人」のヒロインとしてその名が知られるようになった。東洋のマタハリとも言われた彼女のことについて細かに記されている。読むのにかなり時間がかかった。

彼女のことは戦前から名前は知っていたし、昭和二十三年三月二十五日彼女が処刑され際に当時華北交通の理事をしていた私の義父(先妻の父)佐藤周一郎が北京の日本人会の世話人の一人として遺体受領に出向いていることを本人から聞いていたし、上坂さんのこの本にも(二二九頁)同年三月三十一日営まれた観音寺における法要の参施者の七人のうちの一人として佐藤周一郎(この本では修一郎となっている)の名前が記されている。

佐藤は終戦後、その智識経験を買われて、三年余り中国政府に留用され、二十三年十一月長崎県の南風崎に帰還したのであるが、芳子さんが着ていた外套は体付きの似ている亡妻が形見として貰い、帰国の際もそれを着ていたのである。

世の中は狭い一例であろうか。

ところで、李香蘭の名で中国でも名の売れすぎた山口淑子も死刑の判決を受けながら、彼女を日本人であることを立証する公文書が刑の執行間際に届けられたために死刑の執行を免れたことと川島芳子の場合がよく対比される。何故川島芳子が日本人の養子であることを立証しえなかったのかは、この本でも釈然としない。確かに戸籍上、はっきりしていなかった、ことは事実のようである。

川島芳子生存説というのは、昔からあって、私も、つい最近旧満州(東北地方)に旅行して来た友人が北京で銃殺されたのは、他の人だということを聞いてきた、といっていた。

つい、この間、義経は衣川では亡くならず奥州各国を北行し、えぞに渡ったといい、その足跡を仔細に記した記事を読んだ。義経神社があちこちにあることも知った。

これらは判官贔屓と言えるものであろうか。皆が嫌いな人には、この種の話がないところを見ると、川島芳子も魅力ある人であったのだろう。