25.10.25
佐藤寿成の著である。古事記を「ふることふみ」と読む彼は、世に流布している「古事記」解釈をもう一度考え直し、疑問点、不明点が多々あることに気づき、私なりの解釈で読み返してみようと努めたと述べている。
正直言って、二十年も前に買って積んどいた本の一冊であるが、近頃、本当に面白かった本である。
とくに興味があった箇所を抜き写しにしてみる。
このわれわれの日本の国は、はるか上古代(弥生時代初期)にイザナギ(アマツ派、色の象徴は白)とイザナミ(クニツ派、色の象徴は赤)が互いに誘い合って協約して始まったとされる。そうであるなら、今でも運動会は「赤勝て、白勝て」であり、日本国旗は「白地に赤く」であり、紅白の糸の結びが祝い事であり、紅白歌合戦は日本人の国民的行事なのである。
アマツ派を象徴する色が白、クニツ派を象徴する色が赤だというのは、この国の上古代からの事で「古事記・神代の巻」にこう示されている。
あかだまは をさへひかれど しらたまの きみがよそひし たふとくありけり
(豊玉姫の歌「古事記・上巻」)
持統天皇・藤原不比等によって確立したアマツ派の奈良時代は、藤原氏女帝称徳天皇の失政によってクニツ派に運が巡ってくる。
これが、桓武天皇の平安京遷都である。平安時代初期、平城天皇・嵯峨天皇・淳和天皇時代に、再びクニツ派天皇時代が訪れる。
クニツ派歌集「万葉集」が公認され、再びクニツ派の春が訪れた。だが…
花の色は うつりにけりな いたづらに わが身よにふる ながめせしまに
(小野小町「古今集」)
「クニツ派の赤い花の時代は、またしても、いたづらに移り過ぎ、またアマツ派の白い花にとって変わられてしまった。クニツ派のわれわれが、いたづらに、われらの世だと羽振りをきかせてイイ気になっている間に、またアマツ派の藤原氏の実権能力に乗っ取られてしまったナァ」
クニツ派が敗北する原因は、常にいつも同じ理由によっている。つまりクニツ派は実務能力が無いのである。そして実務能力のあるアマツ派が、勝利してしまう。
田子の浦に うちいでて見れば 白妙の 富士の高嶺に雪はふりつつ(山部赤人「新古今集」)
田子の浦ゆ うち出でてみれば 真白にぞ 富士の高嶺に 雪は降りける(山部赤人「万葉集」)
この有名な歌も、実景描写の歌のように見えるが、こんな実景は現実にはない。この歌も、実は政治的な歌なのである。
山部赤人は、クニツ派天皇・天武帝の時代に取り立てられたクニツ派の(赤)の人である。だが、天武帝の死とともに、時代は変わってしまう。
時代は、アマツ派(白)の持統天皇・文武天皇の時代になった。彼は持統天皇・文武天皇の白の時代を、讃えなくてはならないのである。
「この日本の国に、二つとない不二の(唯一無二絶対の)高きところにまします(持統・文武)スメラミコトの、偉大な知性に、われら天皇の多くの赤子たる国民は天皇に庇護されて裏を支え(多児の裏)、天皇にひれ伏し、仰ぎ見て、持統・文武天皇の“白”(アマツ派)が日本全国をおおっていく(ゆく=雪)御世を讃えます」
このように解釈すると、実は山部赤人は、実際の駿河国の富士山を見に行く必要はなかったことになる。大和の明日香・奈良の地で、この歌をつくったとしてもなんの不思議もない。
なぜなら彼が讃えているのは、駿河国の富士山ではなく、日本一の山・富士山に掛けた、この日本の国に二つとない不二(唯一絶対至上至高)なる天皇なのだから。
ともかく、以来、富士さんは“白富士”でなければならなかった。「真白き富士の嶺」「富士の白雪」が日本一の山・富士山に規定された政治的思想なのである。
それに対して、江戸時代のようなクニツ派政権の時代では“赤富士”の絵が出てくる。日本一の山・富士山を、白く描くか赤く描くかということは、単なる個人的美意識の問題ではなく、この国では極めて国家政治的なことなのである。
学生の頃、岩波文庫で古事記を一読し、又次田潤先生の授業でも聞いた覚えはある。間違っていたらお許し戴きたいが、天孫族と出雲族との融合をはかるためにスサノオノミコトを天照大神の弟とした、という先生の説明が長く私の記憶にあったり、また古事記の一部が古代ギリシアの物語と似ていると感じたりしたことがあった。
この間も「新トロイア物語」を読んで、とにかく古代の歴史に何となく興味が湧いてきているので、もう少し勉強したい、と思っている。