「ノモハン事件」 25・10・13
昭和十四年に起きたノモハン事件は日本陸軍にとって初の近代戦であった。戦車など圧倒的な武器量で押し寄せるソ連軍を前に日本軍は膨大な犠牲者を出して壊減した。
そもそも満州国の北西、見渡す限り平原が続くノモハン付近で、ハルハ河を国境線と主張する関東軍とこれに異を唱えるソ連。モンゴル軍と間で武力衝突が頻発していた。
昭和十四年(一九三九年)五月十一日発生した日ソ間の戦斗は次第に大規模となってきた。
陸軍の参謀本部は、当時、泥沼化する日中戦争に加え、上海の外国人居留地をめぐる英国とのトラブルも抱えてをり、辺境の国境紛争にかかわる余裕がなかった。
然し、ハルハ河を越えて侵入したソ連軍は戦車や装甲車、長射程砲などを集めて堅固な橋頭堡を築き始めたので、関東軍の参謀部は傍若無人なソ連側の行動に対して、初動の時期に痛撃を与える以外に良策はないとして戦斗を開始したが、ソ蒙軍のジューコフ司令官指揮下の機械化部隊に対抗しえず、八月三十一日関東軍は多大な犠牲者を出して撤退、九月十六日、日ソ両国は停戦協定の合意を公表し、その後の協議で、ハルハ河をめぐる国境線の大部分はソ連が主張するどおりに確定をした。
昭和十五年の秋だったが、東大で当時の大本学参謀の講義を大講堂で聞いた。
何事も日本軍に不利な情報を洩らすまいとする軍部であったが、参謀から聞かされたノモハン事件の真相はかなり深刻なものであった。
そういう苦い経験があったに拘わらず、依然として前近代的な三八式歩兵銃などを使っているのか、というのが、その後陸軍に召集されて入隊したわれわれの感想であった。
どうも従らに精神主義で鼓舞しようとする軍部のやり方では、とても勝てないと、大東亜戦間を通じて軍務についたわれわれは痛感していた。
現在、その間の事情は大いに変わって来ているとは思うが、憲法改正によっていわば正式に軍の存在を明らかにしょうとしている政府は呉々も軍の近代化には遅れをとらないように心して貰いたいと思っている。
(PS)ノモハンではソ連軍に徹底的に負けたと言われていたが、戦死傷者の数は日本軍もソ連軍も二万人前後で、むしろソ連軍の方がちょっと多かったと言われている。
25・10・13
昭和十四年に起きたノモハン事件は日本陸軍にとって初の近代戦であった。戦車など圧倒的な武器量で押し寄せるソ連軍を前に日本軍は膨大な犠牲者を出して壊減した。
そもそも満州国の北西、見渡す限り平原が続くノモハン付近で、ハルハ河を国境線と主張する関東軍とこれに異を唱えるソ連。モンゴル軍と間で武力衝突が頻発していた。
昭和十四年(一九三九年)五月十一日発生した日ソ間の戦斗は次第に大規模となってきた。
陸軍の参謀本部は、当時、泥沼化する日中戦争に加え、上海の外国人居留地をめぐる英国とのトラブルも抱えてをり、辺境の国境紛争にかかわる余裕がなかった。
然し、ハルハ河を越えて侵入したソ連軍は戦車や装甲車、長射程砲などを集めて堅固な橋頭堡を築き始めたので、関東軍の参謀部は傍若無人なソ連側の行動に対して、初動の時期に痛撃を与える以外に良策はないとして戦斗を開始したが、ソ蒙軍のジューコフ司令官指揮下の機械化部隊に対抗しえず、八月三十一日関東軍は多大な犠牲者を出して撤退、九月十六日、日ソ両国は停戦協定の合意を公表し、その後の協議で、ハルハ河をめぐる国境線の大部分はソ連が主張するどおりに確定をした。
昭和十五年の秋だったが、東大で当時の大本学参謀の講義を大講堂で聞いた。
何事も日本軍に不利な情報を洩らすまいとする軍部であったが、参謀から聞かされたノモハン事件の真相はかなり深刻なものであった。
そういう苦い経験があったに拘わらず、依然として前近代的な三八式歩兵銃などを使っているのか、というのが、その後陸軍に召集されて入隊したわれわれの感想であった。
どうも従らに精神主義で鼓舞しようとする軍部のやり方では、とても勝てないと、大東亜戦間を通じて軍務についたわれわれは痛感していた。
現在、その間の事情は大いに変わって来ているとは思うが、憲法改正によっていわば正式に軍の存在を明らかにしょうとしている政府は呉々も軍の近代化には遅れをとらないように心して貰いたいと思っている。
(PS)ノモハンではソ連軍に徹底的に負けたと言われていたが、戦死傷者の数は日本軍もソ連軍も二万人前後で、むしろソ連軍の方がちょっと多かったと言われている。