25.5.28

世に言うアバウトの話が多いけれど、私のリビアについての短い関り合いについて書き遺しておくことは多少何等かの参考になると思ったので認めることにした。

人と人との関係もふとして生じることがある。私が、リビアのカダフィ大佐の実質的な後継者と早くから目されていた大佐の第二夫人の長男、坊主頭のサイフ・アル・イスラム・ガタフィを紹介され、相知ることになったのも偶然に近い。

私の知人の一人がかなり前からリビアと行き来をしていた商社マンであった。

リビアには二十年近くも外国人医療従事者に対する死刑判決事件などもあって西欧社会から隔絶していたが、その後判決も取り消し国際的に謝罪もし、いわば自由社会に復帰したが、特異な行動を変えない大佐を戴く独裁国家であることには変わりなかった。

何人かの大臣連を引き具して東京にやってきたアル・イスラム・カダフィはやっと三十代になった若者であったが、なかなかの人物であると感じた私は、彼の希望するままに私の知人である政府、党の要人を次々に引き合わせた。

私は、石油の確保が一番であったが、彼の国の資源の一部をわが国に確保できないか、という希望が頭にあったのである。世界の国の中でも埋蔵量が大きいと言われるリビアの石化資源は西欧各国も着目していて、日本よりはかなり前から調査団を送り、首脳も乗り込み、セールス外交が活発に行われていた。明らかに日本は立ち遅れの状況にあった。

サイフ・アル・イスラムは彼自身の画を展示することを表向きの日本滞在の理由にしているようであるが、それは飽くまでも余技のうちであった。

私が紹介した党、政府の要人は珍客ということもあって、いろいろの暖かい応接をしてくれたので、サイフも気分を良くして一週間の滞在中、東京の外、関西の名所もいくつか見物して帰ったが、是非一度リビアに来て欲しいという招待を受けたのである。

私は、エジプトに興味を懐いていたので、日本エジプト友好議員連盟を設立し、元官房長官の斉藤邦吉氏を議連の長にお願いしたが、彼が引退したので、幹事長をしていた私が、彼のあとを継いで会長となっていた。

その縁で、エジプトには行ったことはあったが、距離の遠いアフリカの国々には、南アフリカ共和国を除いて行ったことがなかった。

南ア共和国はアパルト・ヘイトの問題で世界の注目を浴びていたが、その実態も見たいと思っていた。幸い、加入していた日本・南ア共和国友好議員連盟のメンバーとして鉱山会議所から招待されたので、超党派で七~八人、私は団長として彼の地に出かけたのである。

ともあれ、地中海の南側に面して、エジプトに隣りあい、ローマの遺跡もかかえるリビアに旅することは魅力があった。

平成1718年ころの夏、私達はリビアの首都トリポリに着いて、そこで一番というホテルに泊った。ホテルのロビーにはアメリカ人らしい人間が多かったが、地中海の対岸はヨーロッパ大陸、古くから地中海貿易の相手国との交渉は当然深く、二十年の言わば眠りから覚めたようなリビアの利権を求めて商売人が動いているような景色がよく見られた。

日本人は極めて少なく、リビアの役所の建物内に設けられた日本側の連絡室も常駐する人もないまま、勝手にアメリカ人が侵入して席を作ったりするような状況であった。

リビアは石油の埋蔵量を抱えていることが最大の魅力だったろう。全国の地図を縦横のメッシュ状に切って、入札が行われていた。日本側の入札は、大へん拙劣なもののようで、鉱区を五つ六つ落したものの、自分の取り分は極めて各国に比べて小さいものであった。もともとリビアにとって有利な入札条件で、石油を汲みだす必要経費一切は落札者持ちで、落札者は自分のシェアの売上の中から、それらの経費を払う、いわばリビアは濡れ手に粟に等しい利益がまるまる入るという方式であった。

それでもサイフは、旧鉱区120年も休んでいた鉱区は若干の修復が必要であったが、日本側に優先的に割り当てることができるように検討を約してくれた。

トリポリの街は活気があった。

サイフはトリポリで俟っているはずであったが、OPECの会議出席のためウィーンに出向いているので、ウィーンで会おうということになった。ところが数日後、ロンドンに行ったからロンドンに来てくれないか、という話であった。

何だ、馬鹿にするな、と思ったが、ここで腹を立てても仕方がない。ロンドンに行くことにした。

その間、トリポリでは経済関係のいろいろな閣僚にも会った。石油関係だけではない。

地中海は漁業も盛んである。日本人の好む鮪もある。漁業関係の役所から、日本で漁船を二隻造って、リビアの漁業者が運用できるようにならないか、という話もあった。地中海鮪協定、大西洋鮪協定などあるが、その権限の一部を日本側に譲ってもいい、という話もあった。

リビアは地中海沿岸国の一つであるが、かつて古代ローマの首都がおかれたこともあることで、ローマ時代の遺跡が三ヶ所もあり、その発掘、保存についても日本側の協力について依頼があった。

夏の陽光がさんさんと降りそそぐ遺跡をつぶさに見たが、彼のイタリアのポンペイ二も優る保存状態の遺跡はアンフィ・テアトルなど充分に鑑賞に耐えうるものであった。秘かに道に落ちていた小さな石のかけらをポケットにお土産とした。

この古代の文化財の発掘調査に着いては、日本に帰って国立西洋美術館の青柳館長に相談をしたら、自分はイタリアでの発掘調査につきあっているので、他の人に頼もうということになったが、その後の動乱で、今はどうなっているのだろうか。

余計なことだが、ローマやギリシア、エジプトなどの遺跡を見るにつけ思うのは、あの辺りから数千年の間、人類の進歩は大したことなかったのではないか、という思いである。

古代の美と文化を越え難いところにルネサンスがあり、それ以上の美を造り出せないが故にピカソなどの抽象画が生まれたのではないかな、と思わざるを得ない。ピカソの才能はすばらしいものであることは認める。しかし、ゲルニカの画を毎日眺めるのも、いささかしんどいではないか。

それをさておき、日本とリビアとの外交関係は無論結ばれていて、トリポリには日本大使館が置かれていた。

大使は初めて会った時、彼の曰く、「この国には政府というものはないんですよ」である。それでは、外交は誰を相手にするのか、変なことを言う人だな、と思ったが、軈て、彼の言うこともわかるようになった。

トリポリにリビアの中央銀行がある。その建物を建て替える話を聞いた。設計を日本に頼むから、どこかを推薦してくれないか、というので、海外にも名の売れている黒川紀章事務所を推薦しておいた。幸い、リビアの担当大臣は喜んで、黒川に決定した。

彼は、中央銀行の設計など、流石に良い名を残せると思ったのか、早速素案を作り、リビアに送った。

彼は、たまたま東京都知事選に立候補した。どういう意図であったか、よくわからないが、どこかですれ違いに遭った時、えらい勢いだったのを覚えている。ともあれ、これは選挙にならなかったが、彼は、相沢さん、設計案ができたら、それを抱えて一緒にリビアに行きましょうよ、と楽しみにしていたのに亡くなって了った。

もっとも、その中央銀行立替案を出していた役所自体がそのころなくなったことを聞いた。本当か嘘かしらないが、大臣は全部廃止となって、委員会が行政を担当することになった、という。

独裁国家のこわいところは正にそこで、なにもかも一夜にして独裁者の意思で変えられて了い、それを押しとどめる力はどこにもない点である。

大使の言った言葉は本当だな、と思わざるを得なかった。

リビアのカダフィ政権という特異な存在をいくらか知ることができたことは、いろいろな点で参考になった。

父の大佐が死に、サイフも降伏したとニュースで知ったが、今はどうしているのだろうか。独裁一家の末路を知りたい、とも思う。