25・8・11

 今は大学病院の先生方もドイツ語は使わなくなって久しいのではないか。「カルテ」とか「レントゲン」、「プルス」などは使われているようだが、そのカルテもパソコンで記入して了うし、たまに書いても英語のようである。

 明治の頃は、医者は森欧外のようにドイツに留学する人が殆んどで、われわれが覗くカルテも先生方はドイツ語で記入していた。

 医師同志の言葉のやりとりもドイツ語で、患者にわからないようにしゃべるのは好都合だったのではないか。

 戦後、駐留軍のGHQのせいか、あらゆる面で米国の制度が英語とともに日本を覆いつくしたので、教育も英語が中心となった。

 戦前われわれの学生の頃は、理乙はドイツ語を第一外国語として、ここを出た者は殆んど医学部に入っていたことを思い出す。

 私は、文甲のクラスにいたが、第一外国語は英語、第二外国語はドイツ語で結構時間数も多かった。訳書のあるものは避けるという例で、どこを探しても飜訳書のないものが教科書につかわれた。レクラム文庫本はとくに読み辛かった。

 戦後、ソ連邦に抑留されることになったが、収容されたエラブガラーゲルには、先住民族としてドイツの将校がいた。スターリングラードの攻防戦で遂に降状したドイツ軍の将校が多く、先輩面でいろいろなことを教えてくれた。

 彼等はソ連に対していつかは復讐してやるという意気ごみを持っている者も多く、負けた癖に大体ソ連をバカにしていた。もっともドイツ人はかつての枢軸国の仲間のハンガリー、ルーマニアなどの人間も自分たちより下とみていたようで、負けてからでもアイツ等は威張っているといううらみごと屢々耳にした。

 ラーゲルには、マル・エヌ全集を初めとしてドイツ語の本が割と揃えられていた。私は、仲間と読書会を開こうというので、エンゲルスの「共産党宣言」を日本語に訳して、読書会を開いたことがある。学徒動員の将校が多かったので、溢れる程沢山の人が集まったのには恐縮した。

 ともあれ、ドイツ人は日本に対してかつての同盟国の意識を持っていたので、われわれには支好的であったが、することは抜け目なく、ちゃっかりしていた。捕虜としての訓練ができているような感じであった。