25.8.3
ソ連に抑留された三年間も何故か私は収容所の管理関係の仕事をしていた。降りしきる粉雪の中で汗をかきながら材木を運ぶ橇を引っぱったこともあるし、貨車に重い小麦の袋を何時間も積み込んだこともある。体力に自信がある、という程のことはなかったが、人に劣れをとるまい、という気持は持っていた。
給与主任の近藤少佐が八時間労働制の確立、食糧ノルマの完全支給などの要求を掲げて、もしきかれないならばゼネストに入るというわれわれの運動がソ連側に洩れて、夜蔭にどこかへ拉致され、姿を消した後の経理主任をやれということになった。長いシベリア鉄道での貨車輸送の間も食事の分配などの仕事はやっていたが、五千人の将校収容所では一番位の低い主計少尉では、大へんやり難いとは思ったが、どうしても、ということになって、引き受ける羽目になった。
給与主任の仕事は、毎日庶務主任(当時大口中尉)のチェックした収容所人員数に基づいてノルマ食糧の所要量を確定し、管理局の担当官(当時ミナコフ中尉)に提出し、よいとなれば、食糧倉庫で受領をする。
収容所には、当初ドイツを主としてルーマニア、ハンガリーなどの将校も収容されていたが、日本人は殆んど将校であった。どうしたわけか将校では杉野少将(あの日露戦争の時、大連港の閉鎖作戦で最後に杉野はいずこと叫んでいる中に鉄弾で頭を射抜かれて亡くなったという広瀬中佐の問題の、その杉野兵曹長の息子という)が一人、将官で抑留されていたほかに満州国の政府高官(文官中隊として編成され、約八十名。野菜調理班として、もっぱら馬鈴薯の皮むきをやっていた)いたが、伐木隊として所外に出る部隊がいたし、又、毎日入退院をする人がいるので、通常の食事と病人食は別途に計算しなければならなかったり、結構勘定は手間がかかった。
毎月将校には十五ルーブル、下士官には七ルーブルの小遣いと毎日十五本(下士官・兵は十本)のタバコが支給されるが、その計算、受領、支給をする。
毎日曜日には、エラブカの町はずれで開かれるバザール―青空市場と言ったらいいか、何でも売っている。主として、ソフォーズやコルホーズ以外の自留地(一ヘクタール)で生産した野菜や肉を生産者が自分で売っているところであるが―に出かけて、皆から預かったルーブルで頼まれた品を買うのも一仕事であった。
それよりも大へんであったのが、作業に伴う食糧割り増しであった。といって、ロシア側からその分を支給される訳ではなく、ノルマで支給されるなかから厳しい作業、例えば、伐木、木材運搬、大工、左官、自動車修理などの作業に当る人に何パーセントかの割り増しをつけるのである。
その分、皆の食糧支給額は減るわけであるから、この増食には当然限度があった。
作業隊の隊長は大体大尉クラスがなっていた。もう既に、われわれは階級章を外していたが、以前の階級意識が全くなくなったかというと、やはりいくらか残滓があった。将校でも一番下のクラスの少尉の私が偉そうにしていると思われてはいけないので、言葉には気をつけながら、無茶な増食要求を断って行くことにはかなり神経を使った。
夜の八時頃にもなって、粉雪を帽子にかぶりながら、作業の厳しかったことを一時間も綿々と述べる隊長を相手にし、要求を断るか、値切ることに頭を使うのは嫌な仕事であった。
後年、主計局で予算査定に当っている時、ふと同じようなことをしていたな、それで、いくらか訓練されたかなと思うことがあった。
その給与主任としての仕事には私よりも若い少尉が一人助手をしていた。
私は、給与主任になる前は、給与中隊で砂糖配分の仕事をしていた。ノルマで一人毎日三〇グラムの砂糖が支給されることになっているが、必ずしもきっちりノルマどおりに来ないこともあったし、又、一般家庭には砂糖が中々手に入らないらしく、われわれに支給される砂糖の中から、収容所のロシア人に時々ケーキを作らせられるので、その分は配給から減るし、又、俵に表示通りの中身が入っていないことがあった。
そこで、毎朝一〇〇個中隊もの砂糖受領者が並んで、眼を皿のようにして見守っている中で、一人三十グラムのところを二十九グラム、時には二十八グラムでパパっと計算をし、分銅を調整して計量をするのであった。計算を瞬時にしなければならない。
その仕事を、初めはランベルティというドイツ人将校と私、ランベルティがいなくなってからは私と山口君が担当していた。後に日商会頭となった山口信夫君である。
私は、いつの間にか、収容所の日本側の主席種村佐孝大佐の隣りの部屋を与えられてそこに住むようになった。二段ベッドの下で、上は関少尉が寝ていた。山口、関の両君は今は亡くなっているが、ともに陸士五十八期の恩賜の銀時計組で、聞くところによると、同期の銀時計組のうち陸軍幼年学校出でないのが二人いて、それが、山口、関君であるという。この両君とは、ともに復員してからも本当に親しく付き合っていた。関君は後に見込まれて婿入りし、沼倉君となったが、本当に真面目な男で、公認会計士の試験に合格した上、写真製版で沢山の発明をし、特許も取ったとのことである。
山口君は旭化成に入り、宮崎輝社長の秘書を務め、その腹心として出世し、会長となり、又日商会頭として立派な業績を遺した。
両君とも今は故人だが、本当に、良い友を持つことができて幸せであった。