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昭和二十年の初め、私は、中支の漢口駐屯の軍司令部で主計将校をしていた。日中の所用で街中に出る。桂林、柳州あたりから米軍の爆撃機が日課のように飛来して、正確に目標に向けて爆弾を落として行く。

前年の終り頃までは第五航空軍の司令部が漢口にあったが、フィリピンが米軍に奪還されてからか、朝鮮の平壌に移駐して了った。薪を焚いて発電している電力で細々レーダーを動かしているだけの防空作戦では、何の役にも立たなかった。高射砲はあったけれど、本物の高射砲は殆んどなく、あとは丸太を切ってペンキを塗り、高射砲に見せかけたものを空に向けているだけだった。

漢口の街は支那人のスパイだらけ。そんな情報は米軍にも筒抜けだろうし、子供だましでは通じる筈がない。

空襲ともなれば、防空壕に潜るか、頑強なビル内に逃げ込むしかない。米軍機(B26、B29など)は悠々目標物に爆弾を投下していく。

制空権を奪われた軍は手の施しようもなかった。制空権を失った日本軍は制海権をも失った。ミッドウェーの敗戦の影響は大きかった。

ともあれ、戦後、自衛隊の創設(昭和二十五年度)に当っては、大東亜戦争の教訓を充分に活用すべきであった。

しかし、自衛隊の編成に当った旧軍関係者を含めた人々の頭は、どうしても海・空よりも陸に重点を置く考え方が強かった。ことに専守防衛の合言葉は陸の守りが中心と言う響きを持っていた。

昭和四十一年、私が主計局次長として防衛庁を担当している時に第三次防(昭和四十二年から四十六年まで五カ年間)を制定することになった。防衛庁は池田・ロバートソン会談を忠実に実行すべく、陸上自衛隊十八万体制を計画に乗せることに固執していた。私は、陸上自衛隊の定数増よりも、空を中心として正面装備を重点的に充実する方が先ではないかと強く主張していた。北海道に配備している陸上自衛隊の戦車もソ連のものに太刀打ちできないような貧弱なものであることは知っているではないか。海も大艦巨砲の時代はとっくの昔に過ぎ去っているにしても、潜水艦などの整備は遅れているのではないか。

連日防衛庁側とやり合っていて、私は、どうしても陸上自衛隊十八万人体制をとりたければ、定数を十八万人と定めると同時に予算定数を十五万人にしたらどうか、という案を出した。

往年、旧軍には平時編成と戦時編成とがあって、平戦編成では部隊の一部を欠番とするとともに余った将校は隊付きにし、一部は勉強のため、大学の学生とし、或いは外国に武官として送ったという事実がある。それを先例として、予算定数を言うならば平時編成として予算上対処したらどうか、という提案をした。

防衛庁は予算定数の考え方には賛同できないが、予算上、一部の人件費を組まないという考え方には反対しない、ということになった。

当時、三次防(五カ年計画)の予算総額をめぐって主計局と防衛庁との間では激しい論争がおこなわれていただけに、予算を食う陸上自衛隊の人件費を極力抑えておいた方がいい、と防衛庁側も判断したのであろう。

大東亜戦争の前のノモンハンの事件でソ連の近代化装備に手ひどくやられた、と内々聞かされていただけに、その事実を秘匿して相変わらずの路線を歩いて行こうとする軍部のやり方には大いに不満を持っていた。

昭和二十年八月十五日終戦の大詔が下った。私は、北鮮に駐屯していた第三十四軍司令部の被服物品の主任将校としてリストを揃えて被服、物品をソ連側に交付する役目も持って、事務室としていた小学校の校舎に待機をしていた。

それから、数日後、小学校の校庭にどっと押し寄せたソ連軍の機械化部隊に驚かされた。小銃を担いで歩いている兵隊などは一兵もなく、物々しい戦車と装甲自動車のおびただしい列であった。

あゝ、こんな鉄の塊のような連中を相手にして戦ったのでは、三八式歩兵銃では全然役に立たないな、と強く感じた。戦車の上に乗って転がっている戦塵で汚れた兵隊の中に女の兵が混ざっていることが目についた。

そんなことも三次防の折衝では思い出すことがあった。

三次防以後も防衛費の総額をGNPの一パーセント以内に留めるべきだという議論が真面目に行なわれていた。私は、意味のないことだと思っていた。防衛費を一パーセント以内にしておけば、戦争に負けてもよい、ということには、絶対にならない。そんなこともわからない左の考えの人達にも一度敗戦の苦しみを想起して貰いたい、と思っている。戦争はしてはならない。そうだ。しかし、もし万一、戦争をしかけられ銃を取ったからには、絶対に負けるようなことがあってはならない。それが大東亜戦争の教訓である。