25・7・29

 今から半世紀も前、私は主計局にいた。ある時、同和対策で立法法案が回って来たので、私は立法を反対した。そんなことをして同和の人々を一般と違った取扱いをするから、却って将来に亘って差別の観念が残る。一番の同和対策は、同和の人々が大都会に出て来て住んで貰うことで、大都会の中では、そんな差別意識がもともと少ない、やがて問題にならなくなりますよ、というものであった。

 そこで、私は、猛然と上司に叱責された。閣議で決定したことを官僚として反対するか、という趣盲のものであった。私は、二、三言葉を返したが、強いて争わなかった。閣議決定とあらば、職を続けようと思う限り、従わざるをえない、と思ったからである。

 しかし、今に到るまで、私は、あの時間違ったことを言ったとは思っていない。

 日本には、在外外国人は別として、はっきり違う民族としてはアイヌ人(現在約二万人)がいるに過ぎない。日本人は単一民族だと言って叱られた人もかつているが、われわれの意識としては、日本人は一つの民族だと言っても間違っていないような気がする。

 米国はアフリカ系の人が移民で多量に入ったり、隣国のメキシコからもヒスパニック系の人々が陸続きとして流入したり、もう白人系を上回る人口になることが予想されている。

 交通機関の発達が地球を短小化し、人間の交流を推し進めて久しい。他面人種間、民族の局地間トラブルは無くなってはいないが、かつてのような大戦は起る様相はない。大きな方向としては、世界は平和の方向に向っていると見ていいのではないか。

 それを推し進めるに一番いいことは国間、人種間、民族間の交流を進めることである。お互い日常同じところで暮していれば、無論例外はあるが、もろもろの差別意識はなくなって行く。言語の差という大きな障碍はあるが、これも好むと好まざるとに拘わらず英語が世界共通語になることによって、少しづつ解消されていくのではないか、傳統も文化もある言葉を捨てるのではなく、母国語の外に少なくとも一ヶ国語ぐらいを読み書きし、しゃべるぐらいのことは出来るようになるのではなかろうか。

 あれこれ、少しは夢のようなことを考えるのも、まだ夏休み中という意識があるからではないか、と思っている。