25.7.31

ソ連邦、今はロシア共和国に三年近くいて鉄条網の中が多かったけれど、いろいろな経験をして、いくらか、外国のこともわかったかな、と思っている。

ソ連の兵隊は寒さに強かった。日本人ほど繊細ではない。寒い冬でも外套の下は木綿の粗末な軍服みたいで、よくまァ平気だなァと思った。どうも体格的にも丈夫にできていて、動物的な強さを持っているのではないか、とみえた。

私どもの収容所のあったところは、タタール自治共和国で、ここは名の示すとおりタタール系の東洋人の血が濃いとみえて、ロシア人よりは体も小さく、又使う文字も右から左に書く、独特のものであった。無論、言葉も違う。

タタールの年寄り、わけて婦人たちはロシア語も上手ではなかった。それだけ、われわれにも親しみを持っていた。収容所には管理局があって、主として軍人が事務を行っていた。タタールの中年の男たちは、兵隊に行かないのは稀であったが、下働きをしながら、よくぐちを言っていた。

壁に耳あり、といったところか、声を低めて、ロシアも革命前はもっとよかった。どこがよかったかはよくわからなかったが、そういってわれわれにボヤくのであった。

民家の中は、家具らしきものも殆んどなかったが、あれだけ宗教を迫害していたと聞いているのに、マリアの像を安置し、灯りをともしている。十字を切っている老婆を見ると宗教を阿片と呼んでいたレーニン体制がどこまで続くのか、と思った。

ただ大戦中戦死したソ連兵は二千万人と言われ、又、革命で、また革命後の諸々の事件で死んだ人間は多いと言われているが、ソ連の体制が何とか持ってきたのは、矢張り米国の軍事的支援が大きかったからかなと思った。何もかも米国製の武器。小麦やミート缶も米国製であった。

ソ連の兵隊は、兵隊に限らないかもしれないが、計算はカラキシ駄目であった。算盤片手にパチパチと計算をするわれわれの手元もつくづく眺めて、オォ、マジックだと言う。彼らで掛け算が出来るものがいなくて、われわれが収容所の外の作業に出かけて行く時は、門の柱に四の数字を書きつけて行く。そして最後に掛け算をするのか、と思って見ていると、何と四を又上から足して行くのである。途中で間違って、やり直し。一個中隊の点呼に雪の中一時間もかかることもあった。

彼等には下にパンツをはいていないのか、洗濯中隊の連中は袴下に汚いものがついていることが多いとこぼしていた。紙を使わないのかもしれなかった。

われわれも紙では苦労した。大きい方をやって、後始末に、しゃがんでいる野外の便所の屋根が藁でふいてある。その藁を抜き取って、手で丁寧にもんで、それで紙のように用をたした。新聞紙はもっぱらマホルカを捲く用に使った。タバコ用には、コンサイスの辞典の紙がライスペーパーに似て、一番喜ばれたが、辞典が何冊もあるわけではなかった。

独ソ戦の前線帰りの兵隊は気が立っているせいか、乱暴なものもいたが、概して人はよいようにみえた。だが、それは個人の気質であって、軍と言うことになると全く別であった。彼らが特に満州でどんな暴虐なことをしたか、はもっとよく歴史にとどめておかなければならない。

われわれがポシェットに上陸し、シベリア鉄道での貨車輸送を俟っているあの日のこと、何が原因だったかわからないが、ロシア兵同志の喧嘩が始まって、最後はお互いにマンドリン(自動小銃)を持ち出して弾丸の打ち合いであった。日本兵には考えられない所業である。

ただ、彼等は歌がうまかった。部隊で行進して行く際に軍歌となるのは、彼等も一緒であったが、彼等の歌は自然に二重唱か三重唱になって、空に響いて行く。それはなかなかまねできないものであった。何か取柄はあったものである。