25・7・8
川端氏の晩年一番親しくしていたのは北條誠氏であると思っている。彼が書いたこの一冊はその観点でも確かなものと思える。
北條が川端夫人に頼まれて遺産相続関係で面倒な仕事を引き受け、北條氏から又相談を受けたりしたことを思い出す。
川端文学の舞台と言えば、若い頃の浅草、伊豆、湯沢、京都といろいろある。
一高文芸部の先輩でもある川端氏の足跡を訪ねて私も一人、時には友人と訪ね歩いたことがある。
湯ヶ島から友人と二人、わさび田の山道を登り、浄蓮滝を見て、天城峠のトンネルを越え、湯ヶ野を経て下田という、伊豆の踊子のルートをマントに下駄で歩いたが、ひそかに期待した踊り子には遭わなかった。
湯沢も雪の頃、高半ホテルに泊った。音もなく粉雪が林に舞っていた。
浅草も六区はまだ遊び場で、カジオ・フォーリーなども健在で、高いのぼりを担いで男衆に怒鳴られたりした。
京都は短いながら勤務地となった。とり違えたりして笑われた京言葉もわかるようになった。
川端の処女作については緒説あるが、一番最初に発表されたという意味では、大正8年(1919年)旧制一高の「校友会雑誌」に書いた「ちよ」であろう、と北條は書いている。この年に私は生まれた。校友会雑誌には私も三篇ほど小説を載せている。あの頃の編集委員は、中村眞一郎、小島信夫、加藤周一など後年名をなした人達であった。
私は、才の足りなさを自覚し、文学への道を諦めたが、もし選んでいたら、どうだったろう、とふと思うことはある。