25・6・2
旧制高校は全寮制で、全国からいろいろな人間が集っていた。既に日支事変は始まっていたが、米、英との戦はまだであった。寮では、世の流れと異なり、自由主義が叫ばれていた。
その寮は食堂まで完全な自治制であった。
同室にHという三河の出身の四修から入学した秀才がいた。かれは、三河の家康が江戸に入り、幕府を作ったので、三河語が標準語だといつも主張していた。
彼は、代返も含めてできるだけ授業を休む組友のなかにあって、まことに几帳面に出席をしていた。みんながノートをとっているのに、彼は教科書を机に立てて、ノートは一切とらなかった。軈て学期末の試験がある、われわれは真面目に出席をする数人の級友のノートを2時間ぐらいずつ区切って回しよみをする程度の勉強しかしなかったが、彼は、授業をちゃんと聞いていれば、それで試験には充分な筈であると言って、教科書も開けてみない。
皆が、それでも少しは受験勉強をしているのに、彼はすることがない。彼は萬葉集の歌が好きなので、半紙に丁寧に何枚も、何枚も歌を写して、その半紙をぐるっと部屋の壁に貼って行く。
1クラス30人、その成績は翌期の初めには教室の壁に発表してある。成績順である。
彼は、いつも青電か赤電であった。当時、東京の市電は終電車は赤の尾燈、その一つ前は青の尾燈をつけていたので、成績のビリは赤電、一つ前を青電と通称されていた。それでも、彼は、1度もドッペル(落第)することはなかった。
彼は子供が好きで、文科から理科に転じ、小児科の医者になった。
彼と並んでいつも青電か赤電だったのはFという級友であった。彼は、その高校に八浪して入学して来た。当時、旧制高校は1、2年浪人して入ってくる者は珍しくなかったが、九へん目で入学というのは聞いたことがなかった。
神田の予備校で受験勉強を続けている中、学校に頼まれて、授業を手伝っていた。同じクラスにFを先生々々と呼ぶものがいるので、聞いてみたら予備校で教はつていたので、ついクセになった、という。彼は家が地方の農家で貧しく、寮生となってからもアルバイトで受験生を教えていた。
その彼は、大学の入試試験でも一度失敗した。
しかし、某省に勤めて、間もなく結婚をした。そして、早く亡くなった。彼の一生は高校へ入るためにあったようなものだかもしれなかったが、しかし、男子一生の念願を貫いたのだから、もっと命すべし、だったかも知れない。しかし、お通夜の席で、奥さんを慰めるのは辛かった。
ユニークな存在はまだまだ多かったが、その1人、Sは、某地方の名門校で二度出ないといわれた秀才だったが、彼だけは絶対に通ると思われていた高校入試を三度失敗した。田舎の街は狭い。晝は外歩きも出来ず、夜更けてマントを被って散歩をした、と言っていた。二浪して入って来たが、よくあることのようだが、受験勉強から開放されたはよいが、脅迫性というのか、精神分裂症になった。
割と親しくしていたので、よく町で一緒に酒を飲んだが、寮歌を唄いながらかえってくると、突然、後をふり向いて、刑事がつけてくる、という。私の身体の隱にかくれるようにして、恐怖の面持ちである。誰もいないじゃないか、と言うと、いや、急に物隱にかくれた、のだという。歩き出すと、又、同じことを言う。
教室で生生が何かで注意を与えると、それはみんな自分に向けて言ったんだと言う。そのうち、同級生の1人の下駄箱に恋文をつける始末。プールサイドに何月何日何時に来てくれと言うので、困ったと、その附け文をつけられた級友から頼まれて代りに私が行ったら、大へん立腹していた。
そのうち、クラス担任の教授の席へ行って、叱られたといってよゝと泣く始末。
青山の脳病院へ入るようになった。電気のショック療法受けたりして、とにかく大学は仙台に入ったが、聞くところによると徴兵延期の屈けて忘れて召集をくった、と言う。
あたら秀才が病には克てなかった例であるが、多彩の級友も、30人のうち残っているのは私を含めて3人である。クラス会もなかなか開けない。
往々茫々