1月16日付のモスクワの地元紙「ノーヴァヤ・ガゼータ」に相沢のインタビュー記事が掲載されました。

http://www.novayagazeta.ru/gulag/56272.html

この記事を全国強制抑留者協会事務局長吉田一則さんが全訳をして下さったのでアップいたします。


相沢英之オフィシャルブログ「オピニオン・アイ」Powered by Ameba


<サムライに彼の刀を返して!>
“グラーグの真実” 第4回
副題: 相沢さんは93年に及ぶ御自分の人生の内、
この23年、私たちの歴史健忘症と闘う為
ロシアを訪れて居られる。
☆ 相沢さんの御写真:撮影者 アンナ・アルチョーミエワ
ロシアの日刊紙“ノーヴァヤ・ガゼータ”
2013年1月16日
ナターリヤ・チェルノーワ(評論員)

「ソ連軍が私達の領内に進攻して一週間後、その部隊が我々の駐屯していた都市に進駐して来た。私達は武器・弾薬・被服を引き渡すよう命令されたが、私たちは、そうするよりも一般市民に配った方がよいと決め、司部の窓越しに被服と軍靴を朝鮮の人々に渡した。」
「11月に私たちは貨物船に載せられた。汚れた船倉に、まともに眠ることも出来ない程ぎゅうぎゅう詰めにされ『ダモイ ヴ イエポーニユ』(日本へ帰国だ)と言われた。私たちは、これを信じたが、三日目の朝。湾内に数隻の軍艦を見た時、『ダモイ!』が嘘だったことを理解した。私たちはクラースキノのテントのラーゲリへ連行された。<。。。>

私たちは貨物列車に乗せられた。 今考えると何故逃亡しなかったのか不思議に思われるが、当時それは不可能だった。それだけの勇気は我々に無かったし、すごい寒さであった。エラブガへ向かう道中で数人の親友が死亡した。また、或る人たちは凍傷で手や足の指を失った。

ソ連の囚人列車の隣に停車し、片言のロシア語で彼等と窓越しに言葉を交わす時があった。主に何の罪を彼等は問われたのかを訊ねた。私が驚いたことは、その中の一人は、20ルーブル盗んだことで
十五年のシベリア流刑に送られたことであった。」


「列車に載せられて23日経ったとき、キズネル村の駅で我々は降ろされた。夜中に我々は徒歩で行軍を始めた。まわりは雪で真白、何処が道路か判らなかった。雪の上を歩きながら私は父母や姉のことを思っていた。みんな どうしているだろうか? 自分は<捕虜>という汚れた荷札をつけ、何処へ行き着くのかも知らない異国の道を歩いていた。これが戦争と言われるものなのか?

しかし、これは我々の苦悩の始まりでしかなかった。行軍の三日目 激しい吹雪に襲われ、最も病弱な者たちが落伍し始めた。或る者たちは道端に倒れ込み、起き上がれず<自分をほっといてくれ。寝かせてくれ。。。>と言った。」


これは相沢英之氏の著書からの抜粋である。私が同氏に初めてお会いしたのは、1年前に開催された、1945年8月の対日戦争終結後ソ連に抑留された日本人たちの問題を首題とする会議の時だった。

50万~70万人の旧日本軍の兵士たちがスターリンのラーゲリに送られたのだ。
歴史の、このページは、大祖国戦争{*第二次世界大戦のこと}終結後67年を経てなお、異なる解釈をもって論じられている。


相沢さんは日本の旧抑留者の協会の会長である。相沢さんは93年に及ぶ御自分の人生の内、この23年、歴史健忘症と闘う為、ロシアを訪れて居られる。


ソ連時代の教科書で大祖国戦争の歴史を学んだ同胞の大部分と同様、歴史の このページについての私の知識は、この会見までは極めて漠然したものでしかなかったと言える。
勝利した後も、対日戦は部分的に継続していたと私達は教えられたが詳細抜きであった。1945年当時18歳の若者で夏の学校から、この戦場へ送られた私のパパは、極めてまれだが勲章の中から<対日戦勝利記念>メダルを選びだして私の両手に持たせてくれたことがあった。どんな勝利なのか、私には疑問に思えるし、彼自身、納得し切れていなかったと思う。何故なら彼にとって最も忘れられない戦争の想い出の一つは、戦闘行動でなく勤務中の或る日、けんかで取っ組み合いとなり、速成中尉たちが、飛行機の胴体の代わりに農家の山羊をペンキで塗ってしまったことだったからである。


会議の参加者のうち、当時の出来事の唯一の目撃者は、93歳の相沢さんだけだった。
彼の開会の発言はテキパキとして外交的、それは、彼が後に言われるように、<終生>の仕事のための、この定例となったモスクワ訪問が - 彼にとって何か定められた形式になったかと思わせるほど外交的であった。しかし、そのあとで会話に応じてくれた時、通訳を通した彼の答えは、口数少なく簡単かつ枯れたものだった - 私は、彼が御自分の運命に責任をもって向き合って居られることを理解するのである。何故なら、運命こそ、この世を如何に生きるかの試験に他ならないからである。少なくとも日本人にとっては。相沢英之は、ほとんど全ての者が実現不可能と思う目的に向かって静かに、かつ確信をもって歩み続けることで私を感嘆させるのである。実現不可能ということは弁償に関する日本側の公式姿勢があくまで非妥協的なことからでも言える。
日本側はもう歴史の不公正の capitalization を待っていないのに相沢さんは、それに固執している。
それは彼の権利だ。


日本人抑留者(相沢さんは<軍事捕虜>という用語を受け入れない。「日本兵は投降したのではなく、天皇の命令で武器を置いた」のだ。)の問題だからである。相沢さんは既に年金生活をされている。これまでに - 経済企画庁長官の要職、長年にわたる官僚の出世街道を歩まれた。
「どのようなことを近年、実現できましたか?」 私は質問した。
「 私たちは日本人抑留者たちに対し、彼らがラーゲルで行った労働に対する謝罪の表明と弁償金の支払いが為されるよう求めて来た。一番目は実現した。エリツイン大統領は皇居で謝罪を表明されたが、支払いに関する具体的決定はなされなかった。このことについてゴルバチョフとも話した。ゴルバチョフは日本人抑留者たちのリストを要請したので私たちは軍事公文書館に要請し約40万人を見つけ、コピーを取りロシア側へ送ったが、公文書館に全ての抑留者の書類がそろっていたのではないことを理解する必要がある。
さらにゴルバチョフ時代に、ラーゲリで死亡した日本人たちの埋葬地12個所に慰霊碑~小さな石碑~を建立することが出来ました。ゴルバチョフと<ロシア側によって、それらが正常な状態で維持されるべきこと>も合意した。現在のプーチン大統領とは、このテーマで話し合う事は今のところ実現していない。」

「 これまでロシアは、柔らかにいえば、物質的弁償を求める権利を認めようとしていない。貴方は実現できると御考えですか?」
「 日本人たちには要求する権利がある。 そして私たちは要求し続けるだろう。なぜなら、正義は我々の側にあるからだ。ロシアは我が国民たちの労働に対して支払わねばならない。」
「 それでもですね。皆さんは長年の間 ロシア側から皆さんの要求に対
する肯定的な回答を一度も受け取っておられませんよね。皆さんにとって - これは、もうお金より原則の問題でありませんか?」
「 お金も必要です。現在9万人の日本人抑留者が生存している。一番若い人で87歳だ。我が国では長生きなので。。。これらの人々に正義を回復しなければならない。それと、我々をラーゲリへ送る際ソ連軍に引き渡した私財を我々に返してもらいたい。」
「 貴方は、これだけの年数が経った今でも、ソ連官憲に没収された物を返すことができると本当に思うのか?」
「 私自身、私の軍刀を返すよう要求した。サムライの刀だ。私は将校だったので帯刀する権利があった。それを私から没収したのだ。」
「 貴方は今、自分の刀を見分けることが出来るか?」
「 出来る。私の刀は名工が作ったものだから。。」
「 貴方のお仕事を引き渡す後継者は居られますか?」
「 自身でこれらの苦難を体験した人々はやがて去る。そして、大業を若い人々に引き継がざるを得ない。彼等はこの問題の重要さを完全に理解することはできない。これは彼等自身の体験はないから。しか
し、元抑留者たちが生きている内に、やらねばならない。」


「 貴方は、近年、希望の無い事業をやっておられるという意見を聞かれたことはございませんでしたか? より悲観的なことに、ロシアでは スターリン粛清の犠牲者 ― 自国民への債務が今日に至るも弁済されていないのです。」
「そういう意見はある。いろんな人がいるのと同じようにね。しかし、私は貴国の政治家たちが肝心なこと、すなわち、もし日本がソ連に宣戦し、私たちが捕虜になっていたのなら、我々のラーゲリへの流刑は正当だったかも知れない。しかし、我々は天皇陛下の命令で武器を置いたのだ。もし、この命令がなかったなら - 我々は死ぬまで戦ったであろう。しかし、我々はソ連と戦わなかった、ということに耳を傾けてほしい。」
。。。数カ月後、相沢さんはご自分の著書を送って下さった。私は抜粋を読んで抑制の利いた記述が - 翻訳の故でなく、安っぽい脚色を許さない著者自身のスタイルであることに気付くのである。これらの想い出の値は余りにも大き過ぎるのだ。


「 <A>ラーゲリの食事はひどいものだった。2-3カ月の間に私たちの体重は10キロ以上減った。 私たちは代議員会を選出し、- 1日8時間労働、糧食ノルマの遵守 - を要求した。我々に、近藤少佐が反乱の首謀者と断定され即刻逮捕されたことが伝えられた。」


「 。。。冬 我々は木材伐採作業をした。我々のところには馬が居なかったので、伐採した木材を橇に載せ、自分たちで引かねばならなかった、たくさんの戦友たちが、この重労働で死亡した。夜、私たちは
バッタリ寝床に倒れ込み何も感じる力も失い、なにも考えることもなく、ただただ豚のように眠るだけであった。。」


「 <A>ラーゲリについて語る時、私はジュック中尉について思い出さない訳にはゆかない。彼は私たちの監督役であった。彼はラーゲリ内で誰よりも怖れられていたが、私にはいつも<ガスパジン相沢>と
敬称で呼びかけた。ソ連の全将校のうち私たちが誰よりもひんぱんに顔を合わせたのは彼だった。

或る時、ラーゲリに南京虫が横行した。たまたま、壁に南京虫を殺した跡を見つけたジュックは烈火のごとく怒り、問いかけた。<ソビエト連邦の資産を汚したのは誰だ?> 犯人はすぐ見つかり重営倉に入れられた。 我々は、南京虫もたやすくは殺せないのであった。」

「 或る時、私は入院したことがあったが、そこで、運ばれてくる如何に多くの人々が死んでゆくことに驚いた。毎日2~3人。ひと冬で500人ぐらいということだった。 また、食事を食べる力がないために死亡したという数人の遺体を見た。」


「 病院から、私をカザン監獄の独房へ移送した。私は銃殺されることを予想したが、なによりも拷問を怖れた。いっそ気が狂った方がましではないかとも思った。毎日、煌々と点灯したランプを向けられ、繰り返し同じ問題で尋問された。」


「 ラーゲリに居て、私はソビエト連邦の生活についてたくさんのことを知った。 全ての青年は出征し,銃後に残ったのは、子どもたち、老人たちと女性たちだけであった。これを実見し、我々はソ連が如何に重苦しい戦争をしたかを理解した。ラーゲリの周りを走り廻る子供たちは<大きくなったら、僕は捕虜になるんだ>と叫んでいた。彼等は、我々には砂糖と肉が与えられていることを知って居り、我々のことを羨ましく思っでいるのであった。我々は彼等にニシンを分けてやったが、彼等はむさぼるように食べ尽すのであった。」


「 ラーゲリから帰国後、長年にわたり、私は夜中に目が覚めると、びっしょり冷や汗をかいていた。私をエラブガへ連行する貨物列車の夢を見るからであった。」


読者の投稿:


ニコライ・ブイルコフ、 2013年1月16日 10:13
「 ガスパジン相沢は正しいです。 我が軍は原爆攻撃と天皇が
降伏を決めた後に国境を越えたのです。」


DANY ESEN, 2013年1月16日 19:49
「 私は歴史家ではないし、大部分の国民と同じように、この時期の
出来事については大雑把でしか知りません。しかし、戦争は、やはり
戦争です。戦争では如何なる善意とお金でも償えない恐ろしい出来事
が起こるのです。」


イーゴリ・トウラーエフ、2013年1月17日 10:21
「 戦争ってなんと愚かなことか? あなたは平気で読めますか?
話題は戦後のこと ― 戦闘行動が終わった後の、捕らえられた
日本人たちに対する、不法で野蛮な搾取についてである。
ついでながら、貴方のような賢者は、何処にでもいる訳ではない。
米国は抑留日本人に労賃を支払ったが、ドイツ人たちは、誰にも
支払わなかった。。。。