24・8・4

 藤沢周平の歴史小説の一篇で、米沢藩主上杉鷹山(治憲)一代を中心とした物語である。

 謙信以来越後百20万石の上杉氏は慶長6年(1601年)会津へ、会津から米沢30万石に減知・転封され、さらに寛文4年(1664年)、藩主急折の際に半知15万石となった。僅か60余年後は8分の1に減封された上杉藩は、いわば軍縮路線に踏みこめず、家臣の召し放ちを行なわなかった。

 かてて加えて18世紀後半、不作年・兇作年の急増はよって、藩財政は窮乏のどん底に沈んだのである。

 これを救済するためには、思い切った家臣の抶持の削減などあらゆる収支の改善策を盡すとともに漆、桑、楮などの商品作物の植樹を奨勵し、封、15万石を実質30万石になるような計画を明和四年鷹山の藩主就任とともに樹てたのである。

 しかし、この計画は思うように進まないで、藩主、重臣の苦悩は増して行くのであった。

 作者の体調不良から、この作品は末尾数10枚が書かれず、最後の原稿となったのは、まことに惜しい。

 しかし、この作品によって、当時の藩の行政の在り方の一端を知ることができた。想像以上に計数的な財政収支の見積もりが行われていたこと。住民生活の末端にまでかなり細かく、行政の眼が届いていたこと、藩士の窮乏がその極に達していたこと、経済社会の発展に伴ない生じた強大な金主(金貸業者)がいかに強力な存在であったか、ということ、などなど、知るところが多かった。

 そして、身分の差、行動の形式を越えて藩主と家臣との人間関係が思いの外、暖かく結ばれていたことを改めて知らされた。