24・7・28

 この年になるまでいろいろな国を歩いたり、多少の勉強もさせて貰って、お国柄についてある種の感慨を持っている。

 外国といっても、旅行は別として、住んだことのあるのは、支那、朝鮮、ソ連である。いずれも当時の呼様で呼ぶ。

 六大大陸に亘って今や百数十ヶ国が分布しているが、大維把に言うと地球の北の方に住んでいる人は色が白くて、背が大きく、南の人はその反対である。何故か。

 皮膚の色は陽に当る度合と期間で説明がつくようだが、背丈は食物のせいかと思う。

 寒さは、人間は火を焚くことで防げるが、暑さは冷房が採り入れられるようになってからは変ったが、それまでは防ぐのは難しかった。

 寒いところで暮すには衣、食、住に亘って苦労をするが、熱いところでは、第一、着るものも余り要らないし、住居も簡単でいい、食物も手に入り易い、というので、人間どうしても向上心が涌いてこない。その差は小さくないのではないか。

 しかし又、暑さ、寒さが厳しいところは、集って議論をすることは不得意で、余りやりたがらない。そこで、何を議論してもなかなか結論に達しない。やって衆議一決したら、いわば会長一任となる。会長の判断で一つのものの可否が決定するのなら、衆議は何のためにするのだろう。そこに独裁的な体制が生まれてくる。

 環境が厳しいので、ぐだぐだ議論をしても仕方がない。それより物事をバツバツと早く決めてくれ。となる。

 どうも、つくづく眺めてみると、例えばロシアや支那などの国々は、一にぎりの支配的階層と一般的庶民とでなりたっていて、中間層がいない。

 ロシアは帝制時代はロマノフ王朝貴族と農民、革命後は社会主義体制での幹部と一般国民、それがひっくり返ると、やはり党や政府の幹部や経済界の大物と一般国民、この構造は遂に不変で、ロシアに民主主義など昔も今もないと言える。中国もそれに近いし、他の独裁的国家、皆しかりではないか。

 戦争は人類全般にとって一つも良いことはない。にも拘らず、局地的にもせよ戦争状態がなかったことはない。戦争をしかけようと思わなくても、しかけられたら理非曲直を言いたてても通じない。暴力には暴力で答えるしかない。

 天災地変は、これ又、絶対になくなることはない。

 戦争や天災地変に遭遇すると衆議を盡している暇はない。結論を早く出して、多少の異論や抵抗があっても、どしどし事を進めてくれる体制の方がよい。そこで独裁的行動が評価され、求められ、是認される。

 それが続くと、とんでもない危険も生じる。

 民主主義はまことにムダが多い、そのムダがあるので、結論が簡単には出ず、時間がかかるが、ふり返ってみると常議的な、妥当な、長続きのする政策が決定され、急進はしないが、穏当な安全路線を進むのである。

 二つの路線のどちらがいいか、それは国民の決めることである。にしても、どうも国としてか、民族としてか、どうしても偏向があるのではないか。

 ややこしい話である。