24.02.13

このところ朝起きると直ぐ、顔を洗う前に二階の窓を開けてちょっと眺めることにしている。冬は寒いが、冷たい空気を三回ほど吸って、何となく一日の来たような気がしている。

昨日の朝は、鳥が枯れ木の枝や芝生の上に、そう五、六十羽も動いていた。皆小さい鳥で、大きいので鳩が二、三羽。チイチイと鳴いて何かしら餌をついばんでいる。しかし、非常に敏感で、一寸でも気配を察するとパッと飛んで行ってしまう。

一年ほど前、庭の片隅に息子が木で台を作って、そこに餌を置いた。餌は近くのホームセンターで買ったものである。警戒するのか、なかなか寄ってこなかったが、そのうち馴れて集まるようになった。しかし、小さい鳥は大きいのが来ると、遠慮するのか、そこのけと身振りをされるのか、直ぐどこかへ飛んでいってしまう。

春先は、杏、夏の頃は蜜柑、柿、梨などの実を嘴でつっついて、皆ダメにしてしまう。

昔、昔、私が小学生の頃、家で文鳥や四十雀を何羽も飼っていた。鳥籠の中でチクチク鳴いて飛んだり、止り木でちょっと小首をかしげるようにしているのを飽きず眺めていた。毎日水を変え、餌を与えるのがちょっとした仕事になっていた。時々忘れて死なせたりしたが、ある朝、ころんと倒れて動かなくなっているのを見ると何だか、とっても悪いことをしたように思えて悲しくなった。

文鳥は馴れて、籠の中に手を入れると、手に乗ってくるようになっていたが、冷たく固くなった軽い身体を手に乗せた時は、もう鳥は飼うまいと思った。

中学に上がった頃、小遣いを貯めて空気銃を買った。中折式のもので、庭に的を作って練習をし、雀を撃ったりして遊んでいた。

ある日、隣の家の垣根で鶯がいい声で鳴いていた。やっと上手に鳴けるようになった。私は、何気なくその垣根に向って空気銃の弾を一発放った。「ホー」といったところで、バッタリ声が途切れてしまった。狙ったわけでないが、当ったらしかった。私は、とんでもない悪いことをしたような思いに駆られて、それで一切鳥を撃たないようになり、そのうち空気銃を物置に入れてしまった。

今でも、その鶯の鳴いていた垣根の場所をよく覚えているし、声の途切れたのも思い出す。

朝、窓を開けて鳥の声を聞くと、あゝ、あの小さい生物にも生命が宿っているな、といういじらしさを覚える。

私は、近頃は見ないが、昔は田舎へ行くとよく出された雀や鵣の焼いたのは、鳥の形があって、とても食べる気がしなかったし、今も焼き鳥屋で手羽は食べない。なまなましい感じが嫌なのである。