24・2・5
縁あってか、京都に赴任したのは60年以上も前である。文化財のことも考慮して米軍も京都は爆撃しなかったという。昭和10年の春、中学校の修学旅行で京都へ行ったのが初めてである。短い勤務であったし、税務署長という職務柄、他人との交際にも気を使わなければならなかったが、古都の良さをいくらか味わった。
口さわがないは京童という言葉がある。戦災を蒙らなかっただけに歴史的な建物も極めて多く、眼を楽しませてくれたが、一方、何十年、何百年、いな何千年も前から住民としてどっしりと根を下して到るところ御近所、学友、勤め先といったような繫がりが現存していて、いわば人々が幾重ものネットの中にいるだけに一寸したことでも次から次へと傳わって、いわばそのネットワークの中で捕えられて了う。それでなくても他人の噂は恰好な茶飲み話の種であった。
蜷川知事が公共事業のためなどに金を使わない、と公言をしていたが、焼けなかった京の街は東京や大阪のように復興の糸口をなかなか捕めなかったが、今考えてみれば、知事はなかなか先見の明があったと思うくらい、京の都の古いたたずまいは値打ちがある。
京都の古い店、例えば一力なども一見さんお断り、という。そんな差別をしないで、お客はお客、どんどん入れたらいいではないか、と思うのは素人のあさましさで、そうやって客の差別をするから貸倒れなどが少ない、という。
私は、何時の頃からか、世界の三大古都は京都、北京とパリで、望めればそこを終の栖としたいと考えるようになっていたが、今や城壁も失って開け過ぎた北京はダメ、パリは余り人が多く集まり過ぎて嫌、となると京都が、ということになるが、さて、どうかなである。
京都の住民は幾重にも結ばれ合っていて身動きも息苦しい点があるのか、マンホールに溜めたメタンガスが重い蓋を吹き上げるように、現状破壊の息抜きも時に興る。かって定数五名の京都一区に二人の共産党の代議士が誕生したのも、旧套に対しく持つ京都人の抵抗の印かもしれない。