23.11.15

ダミアのシャンソンの一つである。"Tu ne sais pas aimer"

このところ毎晩のように机の下にCDプレーヤーを置いてシャンソンを聞いている。一寸前まではモーツァルトのピアノ曲であった。私は、今の若い人達と違って音楽を聞きながら、例えば本を読んだり、文章を書いたりすることはできなかった。気が散ってならなかったのである。然し、いつの頃からかCDをかけながらものをするようになった。それでも演歌のようなものはダメで、ピアノ曲かシャンソンのようなものが邪魔にならなくていい。

その昔、旧制一高の生徒だった頃、寮の部屋でよく唱っていたものの一つが、この「人の気も知らないで」であった。


「人の気も知らないで涙も見せず

笑って別れた心の人だった

涙涸れてむせぶ心 悲しい片思い

人の気も知らないでつれないそぶり」

うろ覚えで間違っているかも知れないが、フランス語だったり、日本語だったり。絶えずみんなで口ずさんでいた。

支那事変に突入しており、自由主義を標榜していた生徒たちにとって何となく閉塞感の拭えない気分の毎日であった。ダミアの唱うこの歌はその頃の私達の気持に会うものだったのかも知れない。それと「暗い日曜日」という同じくシャンソン。

同じクラスに東村勝人という男がいた。受験雑誌で知られていた「受験旬報」の成績表によく名が出ていたので、名は知っていた。その彼と同じクラスになったのは驚ろきであった。彼は寮の新聞「向陵時報」によく小説を発表していた。われわれより遙かに人世経験を積んでいるようにみえて、十代の若さで男女の愛慾の世界を描いていて、われわれは一歩敬意を表していた。彼が寮の部屋でイスに馬乗りになってタバコを片手に背にもたれ、よく唱っていたのがこの歌であった。

東村は学校の授業はわれわれクラスメイトと同じように年間七〇日の欠席限度ギリギリまでさぼっていた。年度末になると教務課の帳簿でチェックをしながら休むのであったが、二年生の時、彼は計算を間違えて限度オーヴァーとなって了った。勿論文句なく落第である。しかし困ったことには彼は二年で一度落第していたので、二度続けての落第は退学ということになっていた。

寮の小使部屋で流石の彼もポロポロ涙を流し、眼鏡を外し、涙の顔を水道の水で洗いながら、頼むからビッテに歩いてくれという。

落第は学科に落第点がついて時にも勿論あるが、担任の先生に仲間が何とか救けてくれるように頼みに行くのをビッテと称していた。アルバイトと同じくドイツ語がなんとなく恰好のよい時代であった。ビッテは割と効いたのである。ところが東村の場合は私とも一人でビッテに行ったクラス担当の国文の教授がガンとして聞いてくれないのであった。曰く、東村の文章は学生らしい清純さがないというのであった。私どもはかねてその教授を好いてなかったが、人一人の人生行路にかかわる問題であるので、何とか助けてくれるように、それこそビッテしたが、ダメであった。もっとも、試験の成績は兎も角として、出席日数だけはやかましい建前であったから、致し方ないと言えば仕方なかった。彼は退学となった。

ダミアのこの歌を聞く度に、青春時代の甘辛い、何となく切なかった気持と一緒に東村のことを思い出すのである。もう七十年以上も昔の話である。