23.11.6

私は米子が選挙区の中心にあったし、そこが交通の要衝になっていたので、そこから外へ向かっての交通の利便さを一層増すための努力をした。

道路では、国道九号線の改良、米子・鳥取間、米子・岡山間の高速道の開通、姫鳥線の整備、鉄道では山陰本線、伯備線の電化、智頭線の開通、若桜線の存続、航空路では米子・羽田線や米子・伊丹線の増便、米子・札幌線、米子・名古屋線、米子・福岡線の創設等に努力した。

私の場合は、関係各省は無論のこと、私の出身母体である大蔵省(現・財務省)主計局の後輩諸君の協力が与って力があったし、役所時代の人脈(例えば全日空の若狭会長)も大いに役に立った。

然し、残念なことには、例えば航空路のうち、米子・札幌線、米子・名古屋線、米子・伊丹線が廃止されることになった。又、何とかして開通したいと努力していた米子・広島間の航空路については、頼みにしていた航空会社(旭航洋)の破産、高速道の整備などの理由によって実現を見なかった。

これらの事業の促進に当って痛感したことは、中央において全国的規模で海陸空交通体系を一元的に整備企画する官庁がないことであった。結局、各地の自治体などを中心にして地元出身の国会議員等を通じて陳情合戦を展開し、政治的な決着を求めるという図式にならざるとえない。黙っていれば何事も前に進まないという状態であったから止むをえないという外はないのであるが、それで良いとも思えなかった。

日本海の海岸線に沿って高速道路及び新幹線を通そうということで関係国会議員を動員して議員連盟を結成し、努力を始めたが、列島開発ブームが消え、景気が後進し、自民党が政権を失うとともに火の消えたようになったのはまことに残念な次第である。